いろいろなことが起きている。
ものごとは、いつもいつも運動している。
どこにあっても、なににおいても。
庭の風景はいま、静止している。
霜をのせ、うす白くなった葉がまだらによこたわる、視界のとおる庭。
正面に見える東の塀まで枝をのばす夏みかんの樹は、ほぼ通年実を提げているらしく、冬枯れた色のなか、今朝など一身に日差しをあつめて福福しい。
一区画さわと揺れた。
南隣の屋敷から、ちいさい鳥が水平に移動してきた。ソメイヨシノの老木の、 なかでも枯れた一枝にやすみ、北側にしっくりたたずむ月桂樹の蔭へぬけた。
うごいた気配は一瞬。また、もとの静寂。
てまえに目を移すと、こちらの呼吸にあわせるように棕櫚の葉がゆったりと上下している。その葉先のこまやかなうごきは鍵盤を叩くふうにしか見えない (目をこらすと、ぎざぎざに分かれた葉先は三十ほど)。応えるように、まわ りの棕櫚の葉が、大きさも高さも向きもさまざまに頷きはじめる。その上方で は、ゆうに三階まで背丈を伸ばした李と木犀が揺れている。日差しにさそわれ るまま斜めに伸びたオリーブの樹が、庭のなかほどで、ほっそりした枝葉を振 りはじめた。白い蝶が舞う。アカンサスの深い緑の葉は天を仰いでゆさゆさゆさゆさ。
オーケストレーション、ということばが浮かぶ。
目のまえにひろがる空間がそっくり頭のなかへはいりこんでいる、あるいは頭のなかがこの庭そのもののような感覚がくる。
だけど、たとえば日差しのぐあいや風のうごきなどはまだよいとしてうっかりひとつのところ
花や実、葉や樹、そして土の中やらに深入りしてはいけない。
葉っぱの組織がどのようで、草木の相関関係がどううつりかわり……。
身体能力のように脳体力というものがあるのだろうか。
叙事的であること。距離を間違えないこと。
子どものころ、時代ものを好む明治うまれの祖父のそばで、よくテレビを見た。
悪役側につく(それもお家の事情だ)家来やらはみな棒切れのようになぎ倒さ れ、画面にさほど映りもせず、果てる。かならず毎回きまってくりかえされる。
「おうちでまってるひとがいるのになぁ」
のりのわるい子どもは、勧善懲悪をあまり面白がることができなかった。気に 入りだったのは、おから(卯の花)が大の好物だという素浪人と蜘蛛がとくべ つ苦手な子分が活躍する時代もの。幼いなりの正義感や心配性を発揮すること もなく愉しんだ。なんという番組だったか、問うてみたい祖父はあの世にうつ って二十三年になる。
母は日頃から大河ドラマを欠かさず見ているらしい。その手にまるきし関心の ない父に気を遣い、キッチンに据え置いた第二のテレビで。実家にもどったお り、食事の後かたづけなどひとしきりすませ、ふたたび食卓について母につき あう。そしてうっかり泣く。当の母はというと、けろりと乾いた顔で一心に画 面と向きあっている。
(そうだった)ドラマはどこにでも起きている。
庭の干草にうまりながら平らになっている猫の腹で、古めかしい焼却炉の石積 みの隙間で、北隣で着々とすすんでいるボーリング工事の地中深くで。
いろいろなところに、出かけすぎてはいけない。