四月七日から細々と降り出した北雨は、どうみても芳しくない空の色合い、 低くうす黒く北から南へ流れる。怪しげなたたずまいで心を暗くした。北雨三 日の信条は今度だけは裏返したい。九日には混沌の詩碑がみんなの友情 によって目の前の畑の一角に建つ。花桃の明るい色がうららかに春を染め 出しているこの野天で、祝杯を楽しもうと誰もが今日までいろいろと努力して くれた。なのに、降るものは降り、吹くものは吹き、氷るものは季節をおしは かる危ない人間の観測頭脳をしびれきるほど凍らせて、まるで四月を一月 に置きかえてしまう無慈悲な自然の手の内。凛然と切り込んでくる北風と 氷雨が、総毛立ててからだを固くしてこらえるのが精一ぱいの日となった。
吉野せい 「信といえるなら」
「風が東北に廻って降り出すと三日の雨は続く」。経験からえた気象のあてが、このたびばかりははずれてほしい、せいのその願いもむなしく、夫、詩人の三野混沌の詩碑は、冷たい細雨のうちつける暗鬱な空のもとに建てられた。混沌の逝ったのは一九七〇年、五十年におよぶ夫婦生活であった。
吉野せいは一八九九年、福島の網元の家に生まれた。娘時代に作家をこころざし、山村暮鳥、室生犀星らによる雑誌『プリズム』や『福島民友新聞』に短歌や短編を投稿、その才能を買われるが、三野混沌とであい、結婚。開墾生活のかたわら詩に生きんとする夫とともに阿武隈の山へ入植、その文学を封印した。
夫の死から二年のその日、あつまった友人のうち、おなじいわき市で野の詩人として生き、ながらく混沌と交流のあった草野心平のつよい励ましをえて、ふたたび筆をとる。「信といえるなら」は、せいのその決意のあらましがえかがれた一篇である。
七十を過ぎて文筆生活にはいったせいは、七五年、串田孫一の雑誌『アルプ』に掲載された短編をあつめた『洟をたらした神』で大宅壮一ノンフィクション大賞、田村俊子賞を受賞、注目されるが、その二年後に短い文筆生活の幕を閉じた。
吉野せいの文学と生涯については、山下多恵子による評論『裸足の女』(未知谷、二〇〇八)にくわしい。山下によって編まれたせいのアンソロジー『土に書いた言葉』(未知谷、二〇〇九)の解説には、夫の混沌は無意識のうちにせいの才能を封印し、またせいもそのように思っていただろう、とある。絶えずことばと格闘する夫に添いとげ、せいは土を耕し、種をまき、子どもたちを育てあげた。その五十年ものあいだ、どれほどのことばがせいの奥底でわきおこり、積み重なり、押し黙っていたのだろう。せいの生によってあらい晒され、練り磨かれたことばが、ついに筆にのぼせられたとき、それは静かなねばりとしなやかさでもって、なんの余分もなく、かっきりと、せいの文学を表現させた。
昨年の暮れ、友人が編集したという一冊の本をゆずりうけた。彼の祖母が嫁いでのち、ひそかに書きためていた歌を、その九十歳の記念にとまとめた歌集だった。せいの沈黙の歳月は、書く、書かない、書けない、そんな次元のはなしではなかった。しかし、それほどの壮絶な経緯はなくとも、なんのさまたげも、またためらいもなく書く、ということのかなわぬ女性たちが、私たちの背後にどれほどいたことか。そう思うとき、やすやすと書き、あるいは書けず、また書かずにもいられる私たちのいまをむしろふしぎと感じる。