リレーコラム

  • 成相 佳南「絆」

    族、それは温かなぬくもりの空間であり、またズレや衝突を生じさせながらそれぞれの理想を戦わせる場所でもある。そこには、小さいながらも一つの社会が存在していいて、些細な喧嘩から深刻な問題まで家族の衝突は事欠かない。鬱陶しさを感じることもしばしばだ。私は最近、家でなぜこんなに毎日、家族と対立するのかと考えてみた。その理由の一つは子供の生意気な口応えがあることに間違いない。しかしそれだけではなく、家族とぶつかることは、社会で人と人とが数々のトラブルを乗り越え共存するために必要なプロセスなのだと思った。一人一人が家族の関係を大事に思う気持ちが、きっと血の繋がらない人同士をも温かい絆で結びつけていくのだろうと、思うようになった。
    中東地域やアフリカの貧困国など現在も至る所で、民族また国家同士の悲惨な衝突が繰り返されている。たとえばインドでは、無数の言語や宗教や生活様式が存在し、あらゆる民族や部族が混合して一つの国を形作っている。多文化の共存するインドは、絶え間ない争いの生じる社会である。道端での些細な口論から、カーストなど社会集団の間にみられる権利の主張のし合い、または2008年に起きたムンバイ同時多発テロのようにヒンドゥーとムスリムによる宗教的対立が悲惨な事態を捲き起こし、多くの犠牲を強いることがある。それぞれの衝突の背景には、外部の者が軽々しく口出しをすることなどできない、繊細なで複雑な問題が存在する。ただ、私は一つだけ伝えたいことがある。いかなる衝突が生じた場合にも決して忘れてはならないこと、それは人と人とが向き合い、互いの主張にほんの少し耳を傾けてみようという姿勢であると。
    私は、家族との絆に、人間が社会を構築する際のヒントが隠されているのではないかと思う。人は誰しも、大切な人を失いたくはない。アフリカのダルフールで何人もの市民を虐殺してきた兵士でも、自分の妹や母親を前にしたならば、その命を奪えなくなる。人々の日常を一瞬にして奪い去っていった過去の戦争や紛争の先導者も、自分の家族の命はどうにか守ってきたはずである。どうして、他人は犠牲にできるのか。その人の周囲にはまた別の、失われることが許されない大切な絆が存在するというのに。
    家族との間でさえも、和解が生まれるには時間がかかる。それを赤の他人同士、異なる文化や背景事情を持つ集団の関係において、互いに認め合うことが難しいのは当然だ。衝突や問題が起こるのは自然のことである。
    人と人が共存するためには、思いやる心がなくてはならない。多くの人が家族との関係を、すれ違い衝突しながらもどうにか思いやり合いながら築いてきたように、人と人との絆を大切にする社会であってほしいと願う。しかし違う考え方をする人も一方では存在するし、自分の行動が無意識にも人を傷つけてしまうこともある。人と人の関係に限らず、集団同士、民族同士、さらには国家同士、と規模が大きくなるに従って問題が複雑になっていく。そこに人と人との関係が無数に内包されていくのだから、当然のことだ。けれども、複雑で面倒で、時間がかかる問題であるとしても、まずは人と人との関係に戻して取り組んでみることが、一つの方法だと思う。
    家では、外では決して言葉にしないような暴言が飛び交うこともある。それほど近く親密に結ばれているから、家族とは他人と付き合うよりも小難しさや鬱陶しさが付きまとい、頭を悩ませることもあるだろう。しかし頭を悩ませた分、他者を思いやる想像力や一歩譲ることのできる心が育つのだと思う。おそらくその経験が助けとなって、私たちは血の繋がらない他人とも外の社会で絆を結んでいくのだ。どんなに小さくても、私は自分の存在する場所を、人間味や温かさの感じられる空間にしていきたい。そして、絆が生む新しい力を信じてみたいと思う。

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