クリスチャン・ボルタンスキー + ジャン・カルマン「最後の教室」
@越後妻有アート・トリエンナーレ
青々とした棚田を覆う太陽は剥き出しだ。何の膜にも覆われていなくて、生き生きとしていて強い。日向に出たとたん、瞬く間に空中に白い光の顔料が撒き散らされる。光はいろんな方向に発光していて、それぞれにぶつかりあっては、よりいっそう強い光の層を生み出しているようにも見える。
いくつもの尖がった山の重なり。その間のささやかな溝に作られた平地には、様々な種類の雑草がそこかしこに伸び、大合唱している。茶色に錆びたジャングルジムと、サッカーゴールは自然に戻されたようで、勢いづく草木の景色に馴染んでいる。大小さまざまな砂利石が散らばった、かつての運動場の地面をざくざくと踏みしめ、太陽に背中を押されながらひっそりとした廃校を目指す。
自然が、自己主張の激しい自然が騒いでいる。
新潟の越後妻有は人間が住むにはとても厳しい地域だ。切り立った山間のがけ崩れを利用して、力ずくで田畑を作り、難しい条件のなかで、土地にあった農業を編み出してきた。そんな環境で農業を糧に生きていくのは、骨の折れること。過疎化が進むのも無理もない。そんな妻有に、どういうわけかあるとき、たくさん学校施設が作られた。なぜだか、地元のタクシードライバーは、「必要以上に」作られたという。案の定、若い家族がほとんど住んでいない今では、めっきり子供の数も減って、廃校がいくつもいくつもできている。それが、「越後妻有アート・トリエンナーレ」の名のもとに、現代美術のために贅沢なサイトを提供している。
クリスチャン・ボルタンスキーの「最後の教室」は、そんな廃校のひとつを利用したインスタレーションだ。強烈な日差しを背に、まず体育館に入ると、視界が影に覆われて一気に暗くなる。ひんやりとした体育館の玄関。薄緑色のリノリウムの床。入場キップを切る村のおじさんがひとり。後ろには、緞帳のように重く、分厚い、真っ黒のカーテン。体育館の入り口だ。
「こちらが入り口ですので。」
と、開襟シャツのおじさんが、涼しく言った。
カーテンをおそるおそる開けると、別珍のようなマットな質感の暗闇が目に飛び込んでくる。と同時に、強烈な草の匂いと、むっとした水蒸気。暗闇は遠く向こうまで果てしなく続いている。
恐る恐る一歩を踏み出すと、ふわりと沈む奇妙な感触が足元を覆う。一歩、二歩と歩を進めるうちに、床には干草が敷き詰められていて、それが草の匂いの正体で、むっとした水蒸気はおそらく乾いた草の吐息だろう、ということを脳が理解する。目が慣れると、完全な暗闇は灰色の透明な暗さに変わっていく。高い天井からは、白熱球が目の高さまで吊る下がっていて、静かに燃えるオレンジ色の灯りを発している。腰のあたりを生暖かい風が吹き抜ける。足元に気をつけて、体育館を横切り、質感の違う光が導く入り口へと歩を進める。そして、もう一度、背後を振り返る。白熱球、扇風機、長いベンチ、干草。大きな壁に映し出された、ざわざわとはためく映像、そして人影。奇妙な取り合わせ。大勢の「存在」が体育館を占領している。
電球の灯りに導かれて、体育館を抜け、校舎の廊下へ。長い廊下の果てには、強い光がぐるぐると渦巻いていて、その光に吸引されるように、直線を歩いていく。長い廊下の灯りと、どこからか聞こえてくる物音。心臓の鼓動。直線を歩くほど、徐々にクレッシェンドするのを、肌で感じる。片側には、墨字で書かれた、教室の名前。「職員室」、「視聴覚室」、「用務員室」、「給食婦室」。もう片側にある大きな窓の跡。何事もなかったように、壁色に潰されている。かつて険しい山の景色を映していた窓は、今となっては、窓枠だけを残して黒い鏡面に潰され、誰も映っていないポートレートのように天井近くから斜め下を見下ろしている。黒い鏡面に映るのは、見上げる自分の顔。もしかしたら、その表面の一層奥には、誰かの顔が塗りつぶされているのかもしれない。Who knows.
渦巻く強烈な灯りの近くには上り階段がある。上に行くほどに心臓の鼓動に近づいていく。深い緑色の暗闇。二階に上がってすぐ左手にある広い部屋は理科室だ。緑色のシルエットに見える、深いシンクと蛇口の後姿。心臓の鼓動は、眠った理科室を膨らませたり、縮めたりする。音のエッセンスは、校舎のいたるところに侵入して、空間に息を吹きかけるように響きを増幅させる。
二階の長い廊下沿いにある部屋。布で覆われた白い塊。布の下で、積み上げられ、寝かせられ、組み合わされている、小さな机と椅子の集団。暗い校舎のなかで、浮かび上がる白色の存在。かつて、ここにいた、子供たち。積み上げられた机の小ささと、そこに座っていたであろう子供の存在が、まるで手を繋いだ瞬間のようにジワリと体温になって身体の中に入ってくる。
そして、三階に導く低い階段。上りきると、「どさり」。大きな塊が目に飛び込んできた。その瞬間、「かつていたであろう」子供たちの身体の輪郭と、体温と、騒々しさが一気に私の身体を覆って、廃校の過去と、その過去が積み重なった床の上に立つ自分の足元の間に、時計が狂ったように、意識が行き来した。階段の前には、古くなった「誰かの」服の山が、それぞれの背中に折り重なるように積み上げてあった。目の前に横たわる強烈な存在の数々。そこには、紛れもなく、今まで一度も会ったことのない誰かの存在、輪郭のない記憶の数々が眠っている。
三階の教室は眠っていた。校舎全体を震わせる鼓動の音は、むしろ心地よく響き、白さを通り越して、青い光に覆われた空間を、静寂に包まれているように「見せて」いた。白い布は床を覆い、パリッとした蛍光灯の光が、透明な棺桶のような長細いボックスを青く照らしていた。存在は眠っている。長く、安らかに眠っている。
廃校全体を使ったインスタレーションを出るには、来た道筋を戻り、体育館を再び横切って、重い別珍のカーテンを開ける。最後にもう一度通り過ぎる「騒々しい」体育館では、いくつもの扇風機が滑稽にまだアタマを左右に振っている。暗闇の空気はやっぱりまだ湿っていて、温度も人肌に暖かい。その瞬間、顔も見えず、声も聞こえず、名前の響きでしか知ることのなかったボルタンスキーという作家の胎内に入り込んだような気がした。
いくつもの言説に覆われたクリスチャン・ボルタンスキーの作品。彼の出自や、記憶や、交友関係や、制作してきた数々の作品との関係や、それを取り巻く美術史や。そんな数々の言説をまるでなかったことのように通り越し、彼の柔らかな部分に直接接続した。
山奥のささやかな平地にのっぺりと腹ばいに横たわる、ある静かな生命の胎内。