リレーコラム

  • 二見 彰 (流浪堂店主)「僕っていうデラシネの転がり方」

    ただ感じるまま、衝動によって突き動かされる。そしてこの先にはいったい何があるんだろうってワクワクしながら目を凝らす。なんだかこうやってずっと生きてきたような気がする。この店を始めた時もそうだった。まるで子供の遊戯といっしょだ。理屈や理論なんかどうだっていい。どっちの方向に向かってるのか、うまくいってんだか、間違ってんだか。とても無駄なことかもしれないし、何処に着地するのか見当もつかない。まるで荒野を転がるデラシネだ。ただ、心のままに転がってくのが楽しくてしょうがないのだ。
    「遊びをせんとや 生まれけむ。 戯れせんとや 生まれけん。」とは『梁塵秘抄』のなかの有名な歌の一部だが、或る日店を訪れたライターさんが、この言葉を僕の店に残していってくれた。遊ぶために生まれて来たのか、戯れるために生まれて来たのか…。此処は、人と本が一緒になって真剣に遊び戯れるために生まれた場所だねって意味で言ってくれたとしたら、とても嬉しいのだけれど。解釈は違ってしまうが、遊びのなかで生まれるものや、戯れのなかで生まれるものがきっとあるんだって思いを持ちながら、この店をやっているのは確かだ。
    『長くつ下のピッピ』や『やかまし村の子どもたち』の作者リンドグレーンが、自身の子供時代を振り返って「遊び死にしなかったのが不思議なくらい」と言っているが、僕は今でもそんな感覚で店のなかを動き回っている。目の前にある数え切れないほどたくさんの本で、この空間全部を塗りたくりたい、絵を描きたい、コラージュのように貼付けたい。「真剣に遊んでいる」のだ。
    では、こんな風に僕を動き回らせる源になっているモノは何か? 多分それは、たくさんの知らない人たちが大切に作り上げた本への湧いては消え、消えては湧く大粒小粒の感動や尊敬と、そしてこの場所に来てくれた人たちに、その本の一冊でもいいから見て欲しい、手に取って触れて欲しい、感じて欲しいという「思い」だ。あとは、うーん、「苛立ち」みたいなモノもあるのかな。人を介さずに成り立つ、どうかすると呑み込まれてしまいそうなほどのネット販売への大きな流れと、「対面販売には未来がない。」っていう声への。
    ネット販売が悪いとは思わない。時には必要だと思うし、自分も利用することがある。ただ、一分一秒でも素早く簡単に、有形無形の諸々を得てしまうことが人間にとってそんなに必要なことなのか、僕には分からない。自分の足で歩いて、目で見て触れて、心で感じることも大事なことだと思う。寄り道、遠回り、無駄骨万歳だ!

    二十代の頃、僕はドカドカうるさいバンド活動に夢中になっていた。売れない食えないインディーズど真ん中のバンドだったけど、本気で絶対プロになってやると思ってた。或る日、そんな気持ちが加速して、「日本を抜け出そう!イギリスツアーを決行しよう!」ってことになった。その時は事務所に属していなかったので、すべて自分たちでゼロから始めなければならなかったが、そんなことは何の苦にもならなかった。行ったからってどうなる保障もないイギリス行き。そこに向かわせたのはじっとしてられない、火の玉みたいな衝動だった。カッコイイとか悪いとかそんなんじゃなく、やらずにいられなかった。 観光ではなく演奏目的だから「飛行機での入国は、審査が厳しそうだ。船で渡ったほうがいい。」という情報を得て、フランスからイギリス目指してドーバー海峡を渡った(あとで分かったが、この情報はガセだった)。その時、船上で「俺ら密航者みたいだな。」と言いながら顔を真っ赤に上気させた仲間の横顔と、ゾクゾクする高揚感と武者震いは今でもはっきり憶えている。仲良くなった現地の二つのバンドとの貧乏ツアーは、一ヶ月ほどかけて十ヶ所を巡る旅だった。移動と寝床はポンコツ機材車、リハと本番の合間には公園でサッカーに興じ、吐く息白い明け方にパンツ一丁で街へ繰り出しバカ騒ぎしたこともあった。そうして、彼らと同じ釜の飯を食い、同じ風景を見て過ごした日々はすべてが楽しく、あっという間に過ぎていった。
    衝動に駆られて行ったツアーだったが、さて結局何が見えたのか? それは、はっきりとは分からない。ただ、今でも心の中で生々しく触れることの出来る感触がある。ツアー最後のライブのステージ上でのこと。全バンドメンバーでの演奏後、(月並みな表現だけど)国境も言葉の壁もそこにはなく、音楽とリズムで引き合わされた仲間たちとのたくさんの固い握手と、しょっぱい涙とサマにならない抱擁の、フワッとしたあったかい感触。そしてもう一つは、バンド解散後、向こうのバンドのメンバーからの「ドラムを叩きにイギリスに来ないか。」との誘いに躊躇してしまい一歩も踏み出せなかった、甘酸っぱくて触れるとざわつく湿っぽい感触だ。あんなに何処へでも行けると思ってたのに…。

    結局なんのカタチにもならず、結果を出せたとはいえないあの時間は、人生の回り道であり時間の無駄使いだったのかもしれない。でも、この時の経験がなければ今の僕はない。心のなかで今も生きてるこの時の感触は、僕を動かす力の球根となって、この店の其処彼処にしっかりと根をはり巡らせている。
    そんな風にこの店を始めてから十年が過ぎようとしている。恥ずかしながら、僕は十年間一つの場所に留まっていたことがない。これから先は未知の世界だ。今のところまったく生活は楽にならず、このままやってくる未来に向かってジタバタし続けるしか出来ないのだろうか。
    敬愛する故隆慶一郎氏が、作品『一夢庵風流記』の冒頭に傾奇者の生き様を、『日本書紀』の一節を引用して「私はこの『辛苦みつつ降りき』という言葉が好きだ。学者はここに人間のために苦悩する神、堕ちた神の姿を見るが、私は単に一箇の真の男の姿を見る。それで満足である。『辛苦みつつ降』ることも出来ない奴が、何が男かと思う。そして数多くの『傾奇者』たちは、素戔鳴尊を知ると知らざるとに拘らず、揃って一言半句の苦情も云うことなく、霖の中を『辛苦みつつ降』っていった男たちだったように思う」と表している。なんともさわやかで颯爽としていて、大好きな文章だ。僕は別に傾奇者じゃないしこんなふうに格好良くは生きられないけれど、同じ男として心揺さぶられ胸が熱くなり、そして励まされる。どんなに今の世の中の流れに逆行しようが、マイノリティな存在になろうが、「グズグズ言ってもしょうがない、選んだのは自分なんだからどんな時でも胸を張ってさわやかでいろ」って言われてるようで、前へ進むための追い風となってくれている。

    この先僕が、どこに行き着くのかは分からない。だけど日々笑ったり、怒ったり、泣いたり、悩んだりの連続が人生だとするならば、その一瞬一瞬を大切に生きていこうと思う。そしてこの店は、言葉で表現することが苦手な僕が見つけた「自身をあらわす場所」であり、真剣に遊びながら作り上げた棚を楽しんでくれる人が一人でもいる限りは、続けていきたい。ただ感じるまま、衝動に突き動かされながら。そして相も変わらず、この先に何か見えるかなって目を凝らすんだろうな。

other column back number