橋というものは、おそらく先史時代以前から何らかの形であっただろう。風に倒された木がたまたま川の上に架かって橋の役目を果たしたり、長い時間が経つうちに流れが平岩の下を侵食して橋のような形になるなど、初めは自然に形成されたものだったに違いない。
現存する先史時代の橋としては、イギリスの東ダート川に掛けられたスパン2.5mの花崗岩の一枚板があるが、どうやって運んだのかなど詳しいことは分かっていない。
人為的な橋としては、紀元前2500年頃、エジプト・ギゼーのピラミッドのあたりでつくられた積み石が最古と聞いている。その後は、世界じゅうで石を使った橋がつくられたが、今も欧州に残る、ローマ帝国の軍団による戦略的な道路橋や水道橋がよく知られている。一方、流れや谷に渡した丸太、蔦や葛を使った小規模な吊り橋など、人のみが通行する橋も各地・各時代につくられたのは言うまでもない。
このように橋は、地形、地質、谷の深さ、水流の緩急、その時代の技術、通行する人や物の重量などによって変わってくるため、一つとして同じ形はないが、大別すると、桁橋 吊り橋、アーチ橋の三つに分けられる。橋を見るとき、どれに当てはまるかを見ると、構造的な成り立ちを読み取る楽しみがふえる。
おもしろいのは、都市的な視点で見ると、ひと時代、橋の上が街になるという例も出現したことだ。たとえば、ヴェネチアのリアルト橋は、自由都市の辺境だった運河に橋を掛け、都市の拡大を図ったもので、橋上に店舗や住宅を設け、家賃が橋の維持費になるという塩梅だった。頭のいい人がいるもので、当初、八百屋や肉屋など、一般的な店が大半だったのを、貴金属や宝石など高額商品を扱う店を誘致することで、家賃の増額による維持費の増大を図り、橋の向こう側まで街を延ばして、「高級品店」橋を繁華街の中心にしたのである。
当時、欧州では橋上に住居を造る例がよくあり、オールド・ロンドンブリッジでは、橋の上に道を挟んだ多層の集合住宅をつくって提供し、やはり家賃収入で維持費を捻出していた。しかし、問題もあって、川面に背を向けた生活だから、これは便利とばかりに排水や糞尿もジャーと川にポイしていたからたまらない。川は汚れ、悪臭と汚物の巨大な下水のようになり、ますますジャーとポイが続く悪循環だった。おまけに火事も頻発したので、結局、橋上住居は廃止になった。人々は取り払ってみて初めて、橋の上とは川面が見え、川風が吹く気持ちのよい場所だと気づく始末だったという。
こうしてみると、先史時代の橋、エジプトやローマ軍の遺跡としての橋、現在も活気のあるリアルト橋、今はなきオールド・ロンドンブリッジなど、それぞれアノニマスな当時の姿や社会状況が想像できて楽しい。
その後、1779年になると、産業革命の骨格ともいえる鉄を組み合わせた「コールブルックデール橋」(通称アイアンブリッジ)が英国シュロップシャーにつくられ、橋は鉄橋の時代になった。当時生まれた詩人のロバート・サウジー(1774~1843)は、「人間がつくり出すものの中で、橋ほど景観にとけこみ、自然の美しさを引き立てるものはない」と言っている。しかし、世界初の鉄橋が出現してからちょうど100年後に当たる、1879年12月28日の嵐の夜、テイ川にかかる鉄橋が200人の客を乗せた汽車もろとも崩れ落ちた落下事故の悲劇を経て、橋は鋳鉄から鋼鉄の時代になった。最初の鋼鉄の橋は、1893年につくられ、今も巨大な姿を見せているエジンバラのフォース鉄道橋で、僕が最も好きな橋である。
やがて、自動車の時代になるとともに高張力鋼が出現したことによって、橋の構造は鉄道橋のようにトラスを使ったものから、ゴールデンゲイト橋のごとく、ケーブルで間接的に橋桁を吊り、長いスパンを飛ばせる巨大な吊り橋へと進化していく。その後、超高張力鋼の発展で、メインタワーからケーブルで橋桁を直接支える斜張橋に至った。これらとは別に、すべてコンクリートの橋もあるが、それも含めて、斜張橋の主塔にしろ、橋脚にしろ、土木コンクリートと鋼の発 展があってこそ実現した形である。
さて、橋好きなのでついつい前置きが長くなってしまったが、ここで、橋のデザイナーである友人・大野美代子を紹介したいと思う。
わが国では一部を除いて、建築家やデザイナーが橋の建設に参加することがなかったが、大野美代子は1976年、歩道橋のデザインを手がけて以来、30年以上の長きにわたり、橋に関わっている。大野は多摩美大で剣持勇に教えを受け、インテリアデザイナーとして松屋インテリアデザイン室に入り、その後、スイスの建築事務所に2年勤務したのち、帰国してデザイン事務所を開設。独立当初は住宅や病院の設計や家具のデザインをしていた。
最初の歩道橋を手がけたのは、首都高速の橋梁技術者から「歩道橋だから、人に近いデザインをしている貴女に手伝ってほしい」と声がかけられたことがきっかけだという。それは、道幅が広く複雑な交差点に架けたもので、当時、必要性を認められながらも、車優先社会の産物だと批判される存在だった歩道橋を、町の環境を保ちつつ、人々の生活に役立つものにしようという最初の試みだった。大野美代子は、橋面のパターンやカラーリング、橋上のベンチの設置、照明設備と計画、斜路と手摺と点字の融合などを提案し、橋は完成した。当時、橋の色は現場の監督が決めていた時代であったが、この「蓮根歩道橋」は土木橋梁界から賞賛を受け、土木学会の権威「田中賞」を受賞したのだ。
これを機に、大野美代子は本格的に橋梁デザインに取り組み、横浜ベイブリッジ、かつしかハープ橋、小田原ブルーウェイブリッジ、長崎女神大橋など、数々の橋を手がけた。大野がデザインする橋は、町から野へ、野から海山へと、徐々に大型になっていき、ついにはスパンが1kmにも及ぶ橋もデザインするようになった。実にミリからキロまで、デザインが行き届いた橋が次々と日本中に完成して、今日に至っている。
橋は大きなものになると、デザインから完成まで、多くの人との協力と、実に10年を越える歳月がかかる。建築は早くできて羨ましいと、大野は言う。
僕は最初の歩道橋以来、大野美代子がつくる橋を撮影してきた。橋は建築と異なり、完成後も構造がそのまま見え、力の流れが読み取れることがおもしろい。橋にこれほど興味を持つようになったのも、もとはといえば大野のおかげである。
印象深い橋は、1999年にできた熊本県の「鮎の瀬大橋」だ。橋ができる以前、対岸地区の人々は町役場や病院に行くのに、深さ100mを越える谷底まで、下りに30分、谷底に架かる危ない橋で急流を渡って、上りに40分、そこから町までさらに2時間もかかっていたという。時には急病人を担架に乗せ、その道のりを運んでいたのだ。車の時代になっても、20kmの遠回りだったそうだ。
橋ができたとき、「悲願達成」と書かれた幕が張られていた。戸板や担架を手に、谷底の急流を渡るとき、宙を仰いだ人々の目に「ここに橋があれば……」と、見えない橋が架かっていたに違いない。
「鮎の瀬大橋」ではこの11月、完成後10年を祝う祭典が行われる。