リレーコラム

  • 須山 実 (エクリ主宰・編集者)「Fromラストサムライ (3/3)」

    三代隔てれば血脈の痕跡は消えるともいうが、どうなのだろう。いずれにしても、世が世でなくて幸いではあった。泣き虫長じて中学生になって読み出したギリシャ神話は盛大に流される血に咽て読み進むことができなかった。文字のなかとはいえ貧血気味の軟弱者たるぼくは血の匂いに耐えられなかったのだ。
    「・・・ゴルギュティオーンという、プリアモスの勇ましい息子の胸へ、矢をうち当てた。打たれて頭を、さながら雛罌粟の実のように、片っぽうにかしげてうなだれた、それは花園にあって、種子をいっぱいかかえたのが、春の雨に濡れひじて重くなったものである。そのように、片いっぽうへ、兜の重みに引かされて、ゴルギュティオーンは頭を垂れた」
    凄惨な殺戮の連続が見事な比喩で畳み掛けられるホメーロスを味わうようになるのは、もっと後になってからだ。
    血には拒否反応があっても、14歳の頃見た滅びゆく「カルタゴ」の映画にはとても魅せられた。カルタゴ側は城壁に迫るローマ軍を一度は平原の戦いで撃破するが、内通もあってついには浸入を許し滅亡する。女たちが髪を切って弓の弦にしたというエピソードを読むに及んで、熱き思いで陥落後のカルタゴの少年を主人公にした冒険小説を構想したりもした。「滅びの美学への傾倒」というほどのこともなかろう。
    大根役者ヴィクター・マチュアが主演した「サランボー」や「ハンニバル」もその頃喜んで見た映画だ。それゆえ、フローベールは『ボバリー夫人』よりも『サランボー』の方を繰り返し読んだ。とはいえ、片手落ちも甚だしく『ハンニバルの象つかい』という少年小説があるのを知ったのはつい数年前だ。
    要するに西洋チャンバラが好きだったので、高校生になったとき剣道ではなくまた空手でもなく、当時はおそろしくマイナースポーツだったフェンシングを始めた。弱くはなかったけれど、さして強くもならなかった。やはり世が世ではなくて幸いだったのだ。弱くなかったのは得意技をもっていたからで、強くならなかったのはこの技を破られたときの「二の太刀」を使う俊敏性と創造力に欠けていたからだ。粘りがなかったわけで、これでは剣士として大成できない。

    サムライの後にはしばしば美学とか意地とかが付いてくるのだが、美しいサムライの姿はと問えば、深夜放映で見た市川雷蔵の時代劇がいつでも思い浮かぶ。雷蔵扮する下級武士はふだん山里で花づくりをしている。ことが起こり抜群の腕の持ち主である彼は剣を振るうため、物置に隠し持った刀を取り出しにいく。タイトルも覚えておらず物語はすべて忘れてしまって、この部分の記憶とてかなりあやしいものだが、思い出されるのは鮮やかすぎるほどの花の色と菰にくるまれた刀、そして凄艶ともいえる雷蔵の顔だ。花と散るのではなく、花と生きるサムライは、まあ雷蔵だからこそさまになるのだとはいえる。
    泥田や落ち武者狩りの竹槍で果てるのは無様な死ではない。そこに美醜はなく、必敗の運命に抗らう鼓動があるだけだ。元亀天正の頃と変らぬ装備でガットリング砲に身をさらすサムライが美しいとも潔いとも思えないが、愚かとはいえない。敵も味方も知った上での戦は必敗ではあっても生の放棄ではないからだ。それは間違えなくサムライの生き方というものであろう。敵も味方も知ろうとしなかったノモンハンの司令官たちとは違うのだ。
    ガトリング砲の弾を呑まされるより喉の布を濡らしながら酒を呑み続けた男を、血を受け継いだ者としては全面肯定したいと思うが、最期の図としてはせめて花のもとにてと想像したい。それでパーフェクトというものである。

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