奇跡的に生還したサムライ、デンパチローは酒とともに無為に生きたらしい。生活のため下駄屋を始めた曾祖母に「サムライが履物など扱えるか」と言い続けたという。しかし元サムライの妻の商法は成功したようだ。
デンパチローに忘備録の類はないが、子だけは生した。そのひとり、わが祖父は次男である。サムライの身分は消滅したとはいえ、祖父の幼少年時代は「サムライの子は云々」という規矩はことあるごとに示されていたのではなかろうか。痩せても枯れても呑んだくれであっても、死中に活を得てしまったサムライの一言なり一分なりの口伝があって欲しかったが、奇跡はデンパチローに重すぎたのかもしれない。唯の人は運命に謝することもなく、ただ生き延びたわけだ。知る限り、祖父にサムライの血と教えが色濃く伝わったとは思えない。
旧来の仕来り通り、家督は長男にとなり、祖父は学問を授けられた。帝大出の官吏となったが、よほど問題があったのだろう。出世には縁遠かった。自らを「神経過敏」と称していた。書棚には漱石と吉川英治があったけれど、読書する姿を見たことはない。いつも時間をかけて新聞二紙に目を通していた。手帳に書き物をしていたが、不覚にも、祖父の死後残しておくことをしなかった。この祖父のぼくにたいするしつけは竹の物指で手の甲を叩くことだった。自分が泣き虫だったことはよく覚えているが「男は泣くものじゃない」とは言われなかった気がする。
風邪をひいて寝込んだある日、押入れにあるはずの短刀を出してくれと、祖父はしきりに母に頼んだという。埃がたつから風邪がなおってから探しましょうと答えたその翌日、彼は亡くなった。死出の守り刀にしたかったのだと、遅ればせに気づいたが、棺の上には果物ナイフが代用で置かれた。いざというとき切腹もできないと、残った者たちは無情なことを言った。唯一、サムライらしき話ではある。
祖父には早世した子が一人いたそうだが、長じたのは三人。男二人、女一人の三人の子どもの二十歳のころの写真はお互いそっくりである。十九になる前結核で亡くなったという伯母の顔は父が女装したかと思うくらいだ。デンパチローの顔の骨格が伝わるのはこの三人までで、ぼくの頭蓋骨は別系統の血を受けた。父は一卵性双生児だったから、男二人の顔は見分けがたく、空手の型を演じる稽古着姿の青年の写真をぼくは父と見誤った。それは慶応大学で空手部の主将を務めたという伯父であった。伯父は学徒動員で海軍に召集され対空砲士官として空母「雲竜」に乗り、船は航行中米軍の機雷に触れ轟沈したという。三千人の乗員の大半が亡くなり、伯父もその中にいた。少しずつ薄まっていくサムライ・デンパチローの血はどちらかといえば、この伯父に多く伝わっていたような気がしてくる。
早稲田に進んだわが父は肋膜が幸いして軍隊行きを免れた。父は戦後になって何度か「戦死したと聞いたが生きていたのか」と町で声をかけられたそうだ。
出撃前に一時帰省した伯父は父に「日本は必ず負ける。兄貴は身体が弱いのだから絶対に軍隊に取られるな」と繰り返したという。声なき声などというものはない。一人ひとりの声があるのだ。なけなしの艦船を集めた最後の連合艦隊兵士ならずとも、昭和19年ともなれば、多くの者たちがしのびよる敗北を予感していただろう。そうでないのは、強い祖国と大人の言葉を信じたい軍国少年だけだった。
デンパチローの曾孫たるぼくが遊学を終え、就職のため面会した出版社の社長はぼくの名と顔を見て絶句した。彼は慶応大学の空手部で伯父の後輩だったという。おまけに海軍に入り、カッター訓練用に配られた合羽には伯父の名前があった。
「なんということだろう。君が双子のお兄さんの子どもというわけか。君の伯父さんの突きは鋭かったよ」と言った。「わだつみの会」の理事の一人だったこの社長に請われて、父の手元にあった伯父の手紙が会報に掲載された。投函せずに手渡された手紙だったのだろう、そこにも「日本必敗」の文字があった。
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