リレーコラム

  • 須山 実 (エクリ主宰・編集者)「Fromラストサムライ (1/3)」

    数十年ぶりに脚光を浴びることとなったジョージ・オーウェルに呼ばれて、あの人のことを思い出した。
    センバ・デンパチロー・タダマサ。
    曽祖父の名だ。子供の頃住んだ洋間の壁に、紋付袴二本差しのデンパチローの写真が掛けられていた。二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。写真機に向かって斜めに腰掛けた彼は、いささかやんちゃな感じの口を引き結んでいる。首には白い布が巻かれていた。伊予松山藩士だったデンパチローは西南戦争に従軍し、西郷軍の銃弾が喉を貫通したのだと祖父から聞かされた。
    「弾丸が首を貫通したと知って、すぐに私はもう駄目だと観念した。人間でも動物でも弾丸が首の真ん中を通り抜けてなお生き残るなどという話は、一度も聞いたことがなかった・・・・・・自分が死ぬと思ったのは、およそ二分間くらいだったに違いない。そしてそれがまた面白い――そんな時に人間の考えることがどんなものであるか、それを知ることが興味深いという意味である」と書いたのはジョージ・オーウェルである。義勇軍兵士としてスペイン内戦に参加した彼は、塹壕でファシストの狙撃兵に撃たれたのだ。
    オーウェルのルポルタージュ『カタロニア讃歌』でこの文を目にしたときはじめて、ぼくはヒイジイサンが拾った命を思い、辛うじて落とされずに自分まで手渡されたバトンの重さに気づかされた。小学生のころはたぶん、「うちはサムライの家系だったんだ」と男の子らしく鼻ふくらませただけだったろう。
    「それは午前5時、胸壁の角でだった。その時間がいつも危なかった。というのは、われわれの後ろ側から夜が明けるので、胸壁の上に首を突き出すと、空にはっきりと輪郭が浮び出るからだ」 オーウェルが撃たれたときの状況である。彼は「弾丸にあたった経験は総じて大変興味深いので、詳細に述べておく価値があると思う」として記録を残した。
    デンパチローはといえば、彼は若年にして目録を受けていたというから、戦の場では極めてリアリストであったはずで、ガトリング砲に向けて駆け馳せていくサムライではなかったろう。優れた剣客たる要諦は進退を知ることに尽きる。死に際は見事にと期してはいても、徒に死に花咲かせようとは考えなかったにちがいない。それにしても、わが国最後の内戦での経験を彼は誰かに伝えようとしたことがあったのだろうか。

    日常的に死があり、錯綜した党派間の確執の中にありながら、オマージュのタイトルにふさわしく『カタロニア讃歌』全編を貫いているのは人間への信頼であり、スペインに対する深い想いである。「にもかかわらず信じる」という眼差しに裏打ちされた文は緻密で潔い。人間の尊厳という精神が息づいている。
    ある日、敵の塹壕深く攻め入っていたオーウェルの眼前を慌てた敵兵が走っていった。男は服を着終わっておらず、ズボンをおさえながら血相を変えて駆けていく兵士をオーウェルは狙撃しない。「ぼくはそこへ”ファシスト”を撃ちに来ていた。しかし、ズボンをおさえている男は”ファシスト”ではない」というわけである。
    この話は『チボー家の人々』に書かれたエピソードを思い起こさせる。第一次大戦のいつ果てるとも知れず続く独仏の塹壕戦のさなか、夜のパトロールに出たフランス兵士の主人公は道端で眠りこけるドイツ軍兵士を見かける。しかし、フランス人たちは敵兵が目を覚まさないよう、そっと立ち去るのだ。
    ロジェ・マルタン・デュ・ガールの大河小説『チボー家の人々』はかつて町の本屋さんでいつでも見かけた。白水社版の「黄色い本」はわが家にも、結婚前の家人のところにもあった。40年以上前のことだから、読書事情は大いに変わる。『チボー家の人々』を読む女学生が主人公の、高野文子のコミック『黄色い本』はじつに素敵な話で、ぼくも幾人かにプレゼントしたが、『1984年』のごとく書店で復活するまでには至らなかった。
    今また書店の平台に並んだオーウェルの『1984年』は絶望的な苦さに満ちた本だ。これほど、気の滅入る本は以降読んだ記憶がないほどで、1972年に文庫版で読んだ後、無明の帝国を「体験」させられた痛覚がずいぶん長く尾を引いた。一望監視システムの下で人間はなすすべもなく立ち尽くす卑小な存在であることをいやおうなく突きつけられたのだ。
    クンデラの『存在の耐えられない軽さ』やアブラーゼの映画「懺悔」など、粛清、密告、相互不信渦巻くスターリニズムの世界や全体主義の恐怖を描いた錘の深い優れた作品は少なくないけれど、心身を直接抉られることはない。
    逃げ場のない閉塞空間は江戸期の一寒村にも、毛沢東がにらみをきかせる成安にも、1986年の都内の中学校にもあった。過去未来を問わず存在し続けるだろう。そのなかにあって、人のこころは壊れる。最愛の人も裏切る。人の暗部に目を縛り付ける近未来小説は途方もなく苦かったのだ。
    同じ作家の手になる『カタロニア讃歌』と『1984年』とでは、まったく相反するネガポジの印象がある。「裏切られた革命」とはいえ、スペイン市民戦争は鮮烈な生命力を感じさせ、怒りもまた光り輝いていたように思える。「人民戦線」そのものにロマンティックな響きがあったのかもしれない。なにしろ、『誰がために鐘は鳴る』があり三人のパブロがいて、虐殺されたロルカの名があったのだ。
    オーウェルには格好の水先案内人がいる。山田稔のエッセイ「わがオーウェル」(特別な一日―読書漫録)は「細部の観察」にこだわり、なぜ書くかいかに書くかを真摯に問い続けたオーウェルの文の品位(decency)と魅力へのオマージュで、オーウェルへの確かな手引書である。
    引用される文は背後に潜む無尽蔵の大鉱脈を暗示する一粒の原石だ。時代の醸す勢いで読んでいたところもある『カタロニア讃歌』を改めて再読したくなるし、取り上げられている「象を撃つ」や「絞首刑」などのエッセイにも手を伸ばしたくなる。

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