逢瀬の一瞬一瞬を
僕らは祝福した、まるで神の顕現のように、
世界にただ二人きりで。君は
鳥の羽よりも大胆で軽やかだった、
階段を、まるでめまいのように、
一段飛ばしで駆けおり、そして導いてくれたのだ、
濡れたライラックの茂みを抜け、自らの領地へと、
鏡のガラスの向こう側の。
これはアンドレイ・タルコフスキー監督の作品「鏡」で朗読された、監督の父アルセーニイの詩「はじめの頃の逢瀬」だ。この詩の朗読とともに画面は「まるでめまいのように」躍動し、重力の法則が消滅し、この身は眼差しだけとなって水の鏡に分け入っていくように感じられた。
宇宙の青で瞼に触れようと
テーブルのライラックが君の方へ身を伸ばした、
「鏡」「ストーカー」「ノスタルジア」で引用朗読された詩に心打たれて、エクリは2011年にアルセーニイの詩集『白い、白い日』を前田和泉さんの翻訳で上梓した。さらに監督の死によって制作されなかったアンドレイの最後のシナリオ「ホフマニアーナ」を今年(2015年)秋に刊行する予定である。ホフマンの幻想世界への推進力なっているものに望遠鏡と鏡がある。アルセーニイは望遠鏡、そしてもちろんアンドレイは鏡に魅せられていた。蝋燭の炎を押し包んで闇が蟠り、鏡の面に魔がゆらめくホフマンの世界を監督はどんなふうに思い描いていたのだろうか。
恋人たちの逢瀬とライラックの花房が分かちがたく結ばれている作品に、萩尾望都のコミック『ゴールデンライラック』がある。といっても、はじめの出会いはまだ幼い二人だ。
長い長い時を経て成就する想い。私はと云えば、ラブストーリーの傍流に佇む男の思いに寄り添っている。自分が一番愛している人は、別な人を一番愛しているのを承知で求愛する大富豪。金力で強引にでは、もちろんない。
手元の本は文庫なので絵の駒はとても混みあっているが、映画的と云われる萩尾望都の自在な場面の移り変わりはいつでも狭い格子を越え出ていく。一方、映画でありながら、運びがどこまでもぎこちなかったのが「ラフマニノフ 愛の調べ」。原題は「ライラック」だった。
宇宙青のライラックに彩られるのは甘美な恋ばかりではない。死んだ土から生まれたリラは残酷な匂いも潜めているのだろう。
『試みの岸』『或る聖書』『逸民』、小川国夫は私が最も好んで読んできた作家だ。『青銅時代』『流域』『王歌』、どれも彫琢の鑿音が聞こえそうな硬質な書名が多い小川国夫にあって、『リラの頃、カサブランカへ』というタイトルはかなり趣が異なっている。この作品は作家自身が「捨石」と述懐しているように習作の印象は否めないが、会話や独白には紛れもなく堅固な小川の筆が宿っていると思う。
この本の帯にはジュール・シュペルベールのロートレアモンへのオマージュ詩が載せられている。「老いたる海よ」と謳ったロートレアモンが死して波となっている詩句で小川国夫自身の翻訳である。シュペルベールは好きだし、訳詩も見事なので文句はないけれど、本文の抜粋ではなく、筆者の翻訳が帯というのは風変わりだ。この帯の地色が薄青のライラックカラー、そして函に使われているのは谷川晃一の絵である。表紙は煉瓦色の布クロス、背文字は銀箔、平は空押し。凝ってはいても厚塗りではなく、端正な存在感を滲ませる造本である。
『ライラック通りのぼうし屋』(安房直子)は、今では花が咲かなくなって久しいライラック並木に店をかまえる年老いた帽子屋が主人公の童話である。ある晩、羊が訪ねてきて、自分の毛を刈ってできるだけたくさんの帽子をつくってもらいたいと注文するのだ。不思議な話の起こし方に黙ってついて行く。面白そうなので、どんどんついていきたくなる。羊の帽子に導かれて踏み入ったのはライラックの花盛りの町である。この町で帽子屋は青い花を集めて帽子をつくる。その帽子は……、という展開。童話なので、挿絵がたっぷり入っている。が、その挿絵、帽子屋も羊も街路もアクが強すぎているように思えて、物語を味わう妨げになってしまうのだ。しかし35年間で20刷にもなっているから、絵が邪魔になるというのは、もしかしたら私一人なのかもしれない。絵と文字を見る脳の場所は異なっているそうだから、私としては片目を閉じて、文字のみを追って再読することにしよう。
木林文庫にある安房直子作品で挿画が素晴らしいのは『風と木の歌』だ。この本に添えられた司修の絵は個性的でありながら自己主張しない。それは作品の登場者たちそのものなのだ。カバーと表紙絵が異なっているのも得をした気分にさせてくれる。