物憂げに囁くような彼女の歌声は、数十年前の自分が漠然と思い描いていたパリに似合っていた。その声の主、フランソワーズ・アルディのアルバムに「もう森へなんか行かない」と題する曲が入っている。この曲と同名の本『もう森へなんか行かない』(E・デュジャルダン著)があるのを、那須塩原の素敵な古書店「白線文庫」に教えてもらった。
19世紀末のパリが舞台のこの小説は「内的独白」という、発表当時には破天荒な手法によって、ジェイムズ・ジョイスに深甚な影響を与えたと云われている。1887年にパリで発表された後、35年間埋もれていたという。35年後の1922年はジョイスの『ユリシーズ』が刊行された年だ。そして『もう森へなんか行かない』共訳者の一人は『ユリシーズ』の翻訳者、柳瀬尚紀である。
主人公の人となりはとことん軽い。「内面」というも愚かなりで、軽佻浮薄そのもの。したたかな「女優」に翻弄され、有り金をむしり取られて続けている学生である。それほどまでに「女優」に夢中になっていながら、彼は街ですれ違った女やレストランで離れたテーブルに座る亭主持ちのマダムに心乱され、どう声をかけようかと妄想を全開させるのだ。付き合ってられねぇ、なのだけれど、この目移りがミソである。「無意識に最も近い思考の表出」と云えば、深遠難解な手法のようだけれど、女性への欲望が脳内地図の全域を占めているようなこの学生の意識なれば追跡可能でわかりやすい。
自分の内面を転写してみれば、実のところ似たりよったりであろう。ある日の私の意識は、十品目くらいの具が煮込まれているスープのようなものだ。自分では好みの肉や豆だけを選って口に入れているようでも、スープそのものも絶えず流れ込んでいて、一つ話が整然と通っているわけではない。
森はいつでも誘惑と排除の双面神だが、「森へなんか行きたくない」と思わせる恐怖小説の一つに『入らずの森』(宇佐美まこと)がある。物語の舞台は愛媛と高知の県境。平家の落人伝説が生きる村と云うと、魑魅魍魎の気配ありありで、ホラーのお約束にはまりすぎの感だけれども、摩訶不思議な生物の粘菌を絡めていることで恐ろしさが倍化している。この粘菌研究に心血を注いだ南方熊楠の話もうまく織り込まれている。
粘菌の写真を目にすると、極彩色のリトルワールドで、その鮮やかな色合いには大いに魅せられる。しかし植物とはいえ、こいつは時にゾワゾワと動き回るのである。そしてこの山里に漂う敗残の物の怪は、恨みを抱いている者が現れるとにわかに活性化し粘菌と一体化する。怨念を嗅ぎつけ取りつくのだ。この憑依はあり得ると納得させられてしまうから怖い。
私にとっての怖い森の極めつけは、夏目漱石の『夢十夜』の「第三夜」だ。
―― 雨は最先から降っている。路はだんだん暗くなる。殆ど夢中である ……
「此処だ、此処だ。丁度その杉の根の処だ」
雨の中で小僧の声は判然聞えた。自分は覚えず留った。何時しか森の中へ這入っていた。一間ばかり先にある黒いものは慥に小僧の云う通り杉の木と見えた。
「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
過日、この「第三夜」の朗読を聞いた。語り手は能のワキの方で、その深い声音が森を現前させ聴き入る者を金縛りにした。