木林文庫コラム

  • バーナムの森の樹が

    ―― マクベスはけっして滅びはせぬ。かのバーナムの森の樹がダンシネーンの丘に立つ彼に向かってくるまでは。
    ―― だれがいったい森を召集できる? だれが大地に張った根を みずから抜けと樹に命令できる? 嬉しい予言だ、
    (『マクベス』シェイクスピア・小田島雄志訳)

    木々がみずから根を抜き動き出すことはない。バーナムの森の樹は永遠に不動だ。マクベスならずとも栄光を確信する。
    動かないものが木なのだから、木が動く話の本は少ししかない。少ししかない中で、トールキンが『指輪物語』に登場させたエントの個性は際立っている。「エント族」は動きかつ話す木ではなく「樹木」とは異なる不思議な生き物。なにしろ、男エント、女エント、と両性がいると書かれているのである。だから、挿絵や映画で現れる、幹に目鼻では余りにも味気ない。天使的なものへの憧憬によって造型されたようなエルフも魅力は尽きないが、会ってみたいのはエントの方だ。

    「大地に張った根をみずから抜く樹」の話を二冊と一冊、ご紹介しよう。

    『わたし クリスマスツリー』という絵本で佐野洋子が描いた、もみの木の走り出す様子を私は気に入っている。ヒューマンでアナーキーな佐野絵の世界。
    ―― おかを こえて、野原を つっきって、もみの木は 走った。
    わがままで一途な思い込みに駆られた「彼女」の走りぶりは健気で滑稽だ。このもみの木に目鼻はない。でも、表情はたっぷり描かれている。
    「木が動く」そのままのタイトルがついた童話が『あるきだした小さな木』(ボルクマン作/セリグ絵)。「自由と束縛と独立」と「訳者あとがき」にある。カバー袖に抜粋された新聞評には「家庭での過保護がとかく問題になる折りから、小さな木が両親のもとを離れて自分であるきだし………」と。
    「…………」。いや、ここで鼻白んでいてはならない。肝心なのは本文、ひとり歩きをはじめる幼木の成長物語の方だ。
    ―― 木はあるけないのではなく ためしにあるこうとした木が一本もなかったからです。
    ちびっこの木は、「僕は動かない木だ」と考えたのではなく「僕は動いてあの人たちのところへ行きたい」と強く願った。
    行きたい、見たい、知りたいという望みによって、木は木でないもの、木を超えたものになった。しかし、このちびっこ木が人語を喋ったとき、お話の活力が一気に萎んだように思えた。エント族が動き回り、そして話しても、彼らがむかしむかしあるところにいた、と感じ続けることができるのに、なにが違うのだろう。ちびっこ木が鳥たちと話したり、人語を聞き分けることには違和を覚えはしなかったのだが。
    エクリでは、6世紀頃のウェールズ・ケルトの吟遊詩人、タリエシンの詩画集『木の戦い』(井辻朱美・訳/華雪・書)を二月に上梓した。
    “The Battle of the Trees”
    ある本の中で、このタイトルに目がとまったときすぐに、この詩を出版したいと思ったのだ。ブナ、ハンノキ、ヒイラギ、モミ、トネリコ、多くの木々が動き出し合戦に馳せ参じるという詩で、登場する木々は軍記物語の勇将たちのように雄々しい。
    ―― 深緑色したヒイラギは
    決然として一歩もひかず
    多くの穂先で武装して
    ひとびとの手を痛めつける

    『指輪物語』のエント族たちも隊伍を組んで進軍し、オークの軍勢と果敢に渡り合うが、トールキンはタリエシンの謳った”The Battle of the Trees”に想を得たのではないだろうか。

    kirin_15