「血があり、火が、そしてヤシの煙の樹が」という言葉が旧約聖書のヨエル書にあるそうだ。『煙の樹』(デニス・ジョンソン著)もまた、木林文庫を始めてから買い求めた本である。ベトナム戦争当時の米軍兵士、在留者、ベトナム人の物語に毎夜少しずつ栞を進めていったのは、読みづらかったからではない。ハルバースタムの名著『ベスト・アンド・ブライテスト』で、米国支配層の内実は少々学んだけれど、アジアもアメリカもろくすっぽ知らぬまま、ベトナムから遠く離れてベトナム戦争反対、北爆中止と唱えていた日々がフラッシュバックされたからだ。
(「余談ながら
、国防長官としてベトナム戦を推進した「優等人間」マクナマラは東京空襲に際して、1500mからの低空爆撃を進言したのだ)
泥沼と呼ばれたベトナムのことは、わずかながら映画で知った。「地獄の黙示録」「ディアハンター」「プラトーン」「フルメタルジャケット」「フォレスト・ガンプ 一期一会」(「ランボー」も?)等々。この本の主人公のCIA局員の伯父が実に不分明な存在で、「地獄の黙示録」でマーロン・ブランド演じたカーツ大佐を思わせる。いや、誰もが不分明なのだ。そもそも60年代のベトナムの地には強力な磁力場が生じていて、外からここに降り立った者たちはことごとく己の磁針を狂わせたのではなかろうか。夢遊の人々が群れているような離人症の土地で、すべての行為が空回りしていく。崇高でも醜悪でもない意味を喪った行為の連鎖。本書は大河小説ならぬ、中心の定かでない沼地小説なのだ。
「煙の樹」、不思議な言葉だ。不分明で蜃気楼のような言葉だ。
ラテン・アメリカ文学を手に取るようになったのは、私もまたガルシア・マルケスの『百年の孤独』の魔術に震撼興奮させられてからだ。しかし、アストゥリアスの『マヤの三つの太陽』と『グアテマラ伝説集』、ボルヘスの『ブローディの報告書』や『伝奇集』で一気に加速された熱は、プイグの『蜘蛛女のキス』で失速してしまった。映画化もされたこの小説、読み終えはしたけれど苦行に近かった。そのせいか、直後に求めたバルガス=リョサの『緑の家』は数十頁で古書店行き。とはいえ、そのリョサの『密林の語り部』を木林文庫本として俎上にしたときの、読み通せるかなという危惧は杞憂だった。8章に分かれた中の、5頁に過ぎない第1章ですっかり捉えられ、頁を繰るごとに惹かれる箇所が連なって、耳折がミルフィーユ状態となった。自伝的要素とフィクションが巧みに綯い交ぜになり、奔放な詩魂がゆらめき立つのだ。
リョサがこの小説の舞台となるペルーアマゾンのマチゲンガ族に学生時代から魅せられてきたのは、放浪する語り部の存在ゆえだった。「昔のことや物語や冗談や作り話を集めたり、伝えたりしながら、アマゾンという海に漂うマチゲンガ族の小島から別の小島に渡るように、逆境をものともせず密林を巡礼する」語り部への畏怖である。
厳しい生存条件に晒される人々にとって、太陽の月の樹木の蛍の雷の疫病の来歴を伝える語り部の言葉は大いなる慰めであり、よるべのない日々を生きるよすがとなるのだろう。
マチゲンガ族が「木の流血」と呼ぶ出来事がある。それは呼び名が喚起するような神話世界の話ではない。ズボンをはいた侵入者による労働力確保の人狩りのことだ。マチゲンガ族同様、密林で弓矢を使って狩猟をおこなう民が駆り立てられる映画「アポカリプト」が思い起こされる。マヤのピラミッド神殿上での供犠をめぐる話で、舞台は中米ユカタン半島だが、もの皆みどりに染まる密林での生活や彷徨は南米にもそのまま重ねられるように思える。
この「アポカリプト」ではマヤ語を、キリストの受難を扱った「パッション」ではアラム語とラテン語を使った監督メル・ギブスンの言語へのこだわりは興味深い。衣装器物の考証にも増して、その時その地で話されていた言葉で時空の溝を越えるのだ。マチゲンガの語り部が「人間が話すと、話していくことが出現した」と言ったように、ギブスンは言葉が時空を再現すると信じているのだろう。
語り部のこわーい話を最後にひとつ引用する。
「肉をめちゃくちゃにしてしまう病気は、その頃、女の形をしていた。顔を焼けただらせ、穴だらけにしてしまう病い。イエナンカ。彼女はこの病いであり、また、モリトニの母であった。イエナンカは、ほかの女と変わらないように見えた」
天然痘出現のくだりだ。この後、子どもは鳥に変身して母から逃げ惑う。