木の声を聞こう、との呼びかけはしばしば耳にするけれど、口をきく木が登場する本はあまり見当たらないようだ。
文字通りのタイトル『口をきくカポックの木』(アフリカ民話集)には、口承・語り物の魅力に充ちた話が20篇収められている。表題はセネガル共和国のもので、間抜けで小狡いハイエナ(ブーキー)がウサギ(ルーク)にやりこめられる展開。語りもの特有の繰り返しはあるが、小話としては滅法面白い。カポックの木は自分に近づき話しかけようとする動物たちに枝(腕)を振り下ろしてぽかりぽかりと殴り倒してしまうのだ。アフリカの村々での語りは火を囲んでおこなわれたそうだ。夜闇の下でカポックの枝ぶりはいかにも殴りかかってきそうに思えただろう。
岡本綺堂の半七捕り物帳の一篇『化け銀杏』に「ある者は暗闇で足をすくわれた。ある者は襟首を引っ掴んでほうり出された」という一節がある。夜の木はどこでも怖いのだ。
カポックという木がよくわからない。エコロジーの教科書みたいな決まり文句の連なる『カポックの木』という絵本のサブタイトルには「南米アマゾン・熱帯雨林のお話」とある。一方、セネガルは乾いた平原の広がる国だから、カポックは乾湿にかかわりなく、暑い土地に生えるのだろうか。
ショパンとのマジョルカ島や男装の麗人という呼び名を知る前の高校一年生のとき、初めてサンドの小説「愛の妖精」を読んだ。わが師がプルーストの「花咲く乙女たち」を評した「淡々と溶ける砂糖菓子のような」という印象で、初心な少年はけっこう感激した。
『ジョルジュ・サンド セレクション 8』に「話をする樫の木」という物語がある。牧歌的な、それでいて子供の独立心をくすぐる話で、大昔少年だった者にも心地よい。
豚が嫌いなのに豚番をさせられていた孤児のエミは、あるとき豚の群れの怒りをかってしまい、樫の大木の洞を住処とするようになる。人に悪さをする木と言い伝えられていて、近寄る者がいないからだ。採集と小さな狩猟、そしてときどきの畑泥棒でサバイバルするエミを樫は拒みはしないが、庇護してくれるわけでもない。この樫の木が話をするのは、話したように思えたのは、魂胆を秘めた老婆の甘言にエミがたぶらかされそうになったときただ一度である。「そこには行くな」と。
エミはやがて幸せな結婚をし、「森番のシェフ」に選ばれ、「話をする樫の木」のそばの樹林に家を立て生涯を終える。
「木はもう話さなくなりました。あるいは、話しても、それを分かる耳はもうないのでしょう」とは、その後の樫の木のことである。
『おおきな木』(シルヴァスタイン作・絵)は新訳が出たくらいだから、とても人気がある絵本に違いない。レビューを覗いても「いいね、いいね」と続いている。だが私には後味がよくなかった。手元にある旧訳本には、こうある。
「きはいった ぼうや わたしのりんごを もぎとって まちで うったら どうだろう。そうすれば おかねも できてたのしくやれるよ」
原題は「The giving tree」まさしく惜しみなく与え続けるのだ。一方、「ぼうや」は惜しみなく奪うだけの身勝手きわまりない男で、『おばけりんご』のワルターさんとは正反対のぼったくり野郎である。ぼうやは大地から収奪を繰り返す人類であり、脛を齧り続けたこの私でもあろうか。
わがgiving tree たる母の推薦図書がオスカー・ワイルドの『幸福の王子』だった。
「つばめよ、つばめ」やはり与え続ける話を、小学校二年生の学芸会で朗読した。