「たいていの人は、桜をみるのは1年のうちで、満開のときの3~5日とちゃいますか」と京都の植木職人、16代目の佐野藤右衛門翁は言う。「残りの360日が桜にとってはたいせつなんです」と。『桜守のはなし』(佐野藤右衛門著)の穏やかな語り口に導かれて頁を繰ると、桜の見回りに同行している気持ちになる。小学生から花見酒好きまで幅広い年代に開かれた本で、5日間しか見ない桜のことがよくわかる。
私もまた花を見て木を見ずの方だが、たぶん十年程前から酒宴人口が増えているような気がする。家人と二人、桜の花の満開の下でひっそりと酒食をしたことが幻のようだ。今ではその公園に着くかなり前から酒の匂いが流れてくる。いいではないか、酒なくてである。だから、アルコール類の持ち込みを禁止して、持ち物検査なる暴挙までした某公苑には腹が立つ。ゴミの持ち帰りを徹底させれば済むことで、なにより5日間の賑わいを桜が喜んでくれるだろう
『木の声が聞こえますか』(池田まき子著)は女性で初めて樹木医となった塚本こなみさんの仕事ぶりを追ったドキュメント。塚本さんは足利市のフラワーパークへ藤の大木を移植するという力業をやってのけた人だ。塚本さんが移し替えた幹の直径一メートル、三百五十畳敷(当時)と云われる藤の木の大きさ、花房の見事さは口絵写真だけでも圧倒される。まさに栄華という言葉がしっくりくる藤の原である。前例はなかった。初めて心臓移植を執刀した医師もかくやというところ。細やかに準備し大胆に動くだけでは足りず、前例を拓くためにはプラスαが不可欠となろう。木の移植では「みどりの指」たる、植物との特殊なコミュニケーション能力がそのα因子なのだ。木々は話すのだと、私も考えているが、安易にコミュニケーションを当てはめるのは妥当ではない。木は木の言葉を話すのだから。
似たタイトルの本『木の声がきこえる 樹医の診療日記』(山野忠彦著)がある。樹木医の資格認定が始まったのが1991年、それより前の1989年の刊行。塚本さんの本が2010年だから、こちらの方が二十年程前である。樹医のパイオニア山野氏が全国の神社や寺の古木から個人の庭木まで、診断し治療した木々の蓄積は千本に至る。経験値は宝、立派な数字だ。類似した症例があるのは稀で、一本一本いつもはじめてなのだ。しかし「悲願の千本目」という数へのこだわりには違和を感じた。みどりの指もつ人が指折り数えるのは変だ。555本の骨を接ぎました、222個の盲腸をとりましたと誇る医師はいないだろう。樹木とて同じこと。
『燃ゆる樹影』(藤田宜永著)の帯に「恋愛小説の白眉」とある。「うーん、白眉か」と二の足踏んで躓きかけたが、主人公の男が樹木医という設定なので読み進む。本書の冒頭近くで描写される、主人公の治療作業の様子は専門家に取材した手順をなぞっているような印象があるけれど、後半の枝垂桜の手当てでは息遣い手際が生き生きと伝わってきた。
この小説の男にも女にも、そして愛のかたちにも共感できないが、もちろん、それは好みの問題で作品の良し悪しではない。アンナにもウロンスキィにもその不倫愛とやらにも惹かれはしなかったけれど、『アンナ・カレーニナ』は強力な磁場をもった小説だ。初読時に刻まれた一文は今でも胸裏に残っている。
白眉とは云わず、私にとっての指折りの恋愛小説の一つはボリス・ヴィアンの『日々の泡』なのだけれど、樹との愛の話の白眉は『遠野物語』にある。文庫本で1頁足らずの話だ。少女と樹にコミュニケーションがあったかどうかは分からない。しかし愛があったことは疑いようがない。「天気のよい日には今でも水の底に、羽の生えたような大木の姿が見えるということである」と結ばれる悲しい愛の話だ。