前回の「柿」で、時代物を一冊取り上げたが、木が書名になっている時代小説は意外に少ないようだ。手元にあるのは『静かな木』(藤沢周平著)、『白樫の樹の下で』(青山文平著)、『椿と花水木』(津本陽著)、『樅の木は残った』(山本周五郎著)の四冊だけである。
『静かな木』は藤沢の遺作短編集とされる単行本で表題作を含め三作が収められている。藤沢周平の書いた木と云えば『漆の実のみのる国』で、上杉鷹山が逼迫した藩財政を建て直す方策として植えさせたハゼの木だ。「静かな木」は還暦間近の主人公が見上げる欅の老木。隠居侍はその立ち姿に己の終末を見立てようとしているのだが、その穏やかな日々が俄かに波立つ。数十年前の因縁がからむ話が淡々と実に淡々と語られ、終わる。藤沢もののファンとしては唸ることなく頷き、静かに頁を閉じることになる。
『白樫の樹の下で』は若手俳優を配したTVの青春時代劇を思わせるストーリーである。「自分さがし」などという逃げ道をあらかじめ封じられていた時代の鬱屈や縛りは感じられず、剣道場帰りの下級武士の青年たちは部活帰りの高校生みたいに見える。若者の振る舞いは爽やかで、恋路は苦い。青春物は脇目もふらず息つかず一気に読み通すのが良い。
『椿と花水木』は中浜・ジョン万次郎の伝記小説である。万次郎の生涯を貫く日米の友情と愛の象徴として椿と花水木(ドッグウッド)の二本の花木が上げられており、作者は万次郎に「男の子ならドッグウッド。女の子ならカミーリア(椿)じゃ」と云わせて、こう書いている。「万次郎はアメリカと日本でもっともなつかしい樹の名をひとつずつ告げた」
何人もの作家たちが万次郎の小説・評伝を書き継ぐのも当然で、彼の生き方、人となりに魅せられない人はいないだろう。際立つ個の強靭さと、彼が築く人との関係の豊かさには「人間」を全面的に肯定させる促しがある。
天は自ら援くる者を援くというが、艱難の針孔を揺るぎない意志で通ろうとする万次郎を援けたのは天の配剤というより、後代の者たちへの伝言を天が万次郎に預けたように思える。
『樅の木は残った』は江戸時代前期の史実「伊達騒動」において、悪玉の権化とされてきた家老の原田甲斐を主人公に据えた、400頁を超える文庫が三冊の長編。お家内の確執に矮小化されてきた事件の真は、雄藩伊達を改易させて盤石の体制を築こうとする徳川幕府中枢と仙台藩との息詰まる暗闘にあったとするのが山本周五郎の捉え方である。作家の視点を体現する原田甲斐は重厚な造形をなされているが、当然のことながら万次郎のように人好きするタイプではない。誹謗陰謀を際どくやり過ごし、巧妙極まりない奸計の縁を歩き通す者はいくつもの仮面を被ることになるからだ。「私はこういうことには向かない」と苦渋の呟きを漏らしながらも、甲斐は「身を捨つるほどの藩」を護るために末代までの汚名を引き受ける。江戸期、武士が命を懸けるとは文字通りのことであって、身を捨てるのは己一人だけではなく、一族すべての命であった。今様の「政治生命」のように舌先に乗っているものではない。自ら未来を鎖した彼が思いを託すのは、北の領地から江戸屋敷に移し植えた樅の木の成長なのである。
四十年ほど前のNHK大河ドラマの「樅の木は残った」では、平幹二郎が甲斐を演じ、吉田直哉が演出だった。私は吉田の番組演出もエッセイも好きで、金木犀の花を食べてみたのも彼の文に誘われてのことだ。平の原田甲斐ははまり役だったように記憶している。「三匹の侍」でのニヒルな女好きの浪人より、舞台上のリア王よりキマッテいた。当時この番組も現「平清盛」同様に暗いと云われたそうだ。何故、現スタッフたちは初心を貫かないのだろう。「遊びをせんとや」は単なる飾り文句なのか。