木林文庫コラム

  • 柿の木のあった家

    父が建て直す前のわが家の庭には三本の柿の木があった。ふだんほとんど閉め切っている二階の雨戸が開け放たれていた朝の、目の前に広がったやわらかな緑の輝きをいまでも思い出す。柿の青葉の瑞々しさは根元から見上げていたのとはまったく別物で、緑光の中に屋根から身を投げ出したくなるほどだった。小学校四年生の頃のことだ。
    三本とも小ぶりながらよく実をつけたけれど、自分ではあまり食べなかった。転校してきたばかりのM君が、自分で梯子にあがってズックの肩掛けカバン一杯もいで帰ったことがある。「美味しかったよ」と笑った彼の顔も忘れられない。坊主頭でよく日焼けしていて熟柿そのままだったM君は又三郎みたいにすぐ転校してしまった。

    『柿の木のある家』は童話作家、壺井栄の短編である。代表作と云われる『二十四の瞳』も木下恵介の映画で見ただけで、壺井の作品をはじめて読んだ。ここに登場する柿が大好物のおじさんの様子はちょっとM君を髣髴させる。みかん、桃、なし、ぶどう、いちじく、あんずと、たくさんの木がこのおじさんの庭では育てられているのに、何故か柿の木が植わっていないのだ。この童話で描かれている子どもたちの心映え、家族や親族とのやりとり、そして風景などは私たちから失われて久しいことのように思われた。「お話」であって、ノスタルジーはないからだ。

    宮崎学の写真集『柿の木』は信州伊那谷にある樹齢八十年ほどの柿の木の四季を撮ったものだ。我知らず、この木のたたずまいを当てはめながら、『柿の木のある家』を読み進めていた。丘の上に一つだけ守り残されたという木は丈高く伸びやかで、季節それぞれの美しさを見せているからだろう。ここからは小声で言う「新緑はかつてのわが家の庭こそ」と。
    それにしても、柿の木の伐採が加速したのは昭和四十年代にはじまったゴルフブーム故とは知らなかった。傍らにあったものがみるみる消え去り、それが目の前のことだけではなく日本中を覆っていたという現象は数限りなくあったはずだ。しかし、気づきはいつでも仕切り直しのはじまりとなる。八年待てば、小さな実が生るだろう。「早く芽を出せ、柿の種」。

    「早く芽を出せ、柿の種」。柿の独り占めといえば、「サルカニ合戦」だが、『ざぼんじいさんのかきのき』(すとうあさえ・文/織茂恭子・絵)は独り占め爺さんと、その強欲ぶりをひらりひらりとかわすメアリー・ポピンズのごときお婆さんとの掛け合い絵本。憎めないざぼんじいさんの顔が良い。

    絵本の『あたまにかきの木』(小沢正・文/田島征三・絵)は落語の「あたま山」の同工で桜のかわりに頭から柿の木が生えてくるというストーリー。もちろん、「あたま山」の天外なオチとは違って、いたっておとなしく目出度しめでたし。

    『バッテリー』の著者あさのあつこが書いた時代小説『木練柿』。恥ずかしながらルビ(こねりがき)なしでは読めないタイトルだ。シリーズの三作目から読んでしまったせいなのか、この短編からは主人公の人物設定がつかみきれない。というより、無理にこねられたように見えてしまう。しかしそれは、第一作目を読んでから判断すべきだろう。

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