キナムの体が俺に寄りかかってきた。こいつが足元をふらつかせるのは初めてのことだ。全軍が停止しているから俺も慌てて手綱を引いたのだろう。叱咤の声や鞭音が聞こえ、兵や馬の混乱が伝わってくる。またしても前日のように探索兵が倒れたのではなく、難所に差しかかった戦車が壊れたのかもしれない。苛立ちを露わにアシュが小走りで脇を抜け、戦車長とフラシムが後に続いた。フラシムだけが弓を携えた。
ここは挟み撃ちにはおあつらえ向きの場所だ。切り抜けるとすれば後方になるだろう。戦車もなんとか廻せる。メディア弓兵の六人がまだ夜営した場に居残って物見についている。夜番での弓兵は馬の尻尾を結び合わせた紐を部隊の外側に張り巡らし銅片を垂らしていた。一夜の塁壁も侮りがたい連中だ。「夜の獣十六、敵の斥候二、間抜けな味方一」効果を尋ねた俺に弓師が囁き、「戯言です。一度も鳴ったことはありません」と付け加えていた。
兵の動き回る音がひときわ大きくなった。戦車に何事かあったのなら、アシュたちの糾問叱責は部隊長の面目を失わせるものだろう。キッギア戦車隊が傑出しているのは乗り手たちの技量は当然だが、戦車のつくりに工夫があるからだ。他の邦にはない頑丈な車軸と柔らかな轅。だからこそ万一となれば破却する。王子たちの戦車は同じつくりではないにしても、敗走軍でないものが戦車を放擲するわけにはいかない。担い台を手当てするか荷車に積むことになり、この狭い街道でたっぷり無駄な時を過ごすのだ。俺の背丈に合わせて青衣を仕立てるような入念な下準備をしておきながら、命にかかわる護衛部隊の手配や戦車の点検はぞんざい。衣と戦車、施す手は畢竟同じもののはずだ。
昨夜眠ろうとした俺の耳元でアシュの声がしたのだ。「聞こえなかったか、夜を剥がすくらいの私の大声が。綾織の潜りを付けた王家の天幕を立てながら、谷の入り口に一人の夜番もいないという有様だったからな。それでいて後方には防柵があった。我らの眼前に柵を据え、獅子の待つ夜の門は開け放し。不行き届きをしかと懲らしておいた。というわけで長居はしなかった。安心したか。お前には珍しく不機嫌な面をしていたぞ」
後方への防御が俺への当てつけではなく本気であっても構いはしないが、もう一方を無防備に晒すとは何としたことだろう。二百を超える供回りは王子自らの選り抜きではなく、后妃側近からのお仕着せか。騎兵百人を率いる長に経験の浅い者がついているはずはない。軍制に詳しくはないが副官も数人いるだろう。警護の差配など王子の命を待つまでもないことで、拙い夜営にこそ理由がありそうだ。お追従を囁く側近の口はおそらく刃を呑んでいる。后妃に侍る女官だか宦官が言い置いたのだ。随いていくだけでよい、王としての采配を学ぶ旅ゆえ口出し無用、多少の失敗には目をつむり気長にと。逞しく実直な百人長にはまっとうな言葉の背に隠された企みなど疑いようがなかったのだろう。アッカド王家の出自たる后妃がどのようなお方か俺は知らないが、豪胆だが物堅いナボポラッサル王は今のカドネツァル王子の半身にはいないのだ。おまけに青衣の誰一人忠告もできない。神殿で王子は誇らかにのたまわっていたではないか、諌める気概胆力をもつ者がいてほしいのだと、戦士でありかつ抽んでる技量を具える者こそと。
しかし取り巻きの青衣どもと悪態を並べても、罠に立ち向かえるのはベルヌスの弓やウッビブの大剣なのだ。この俺は兵として役にたたない。ヒッタイトの鋼はこの身を護るのが精一杯でキナムを救うのも覚束ない。弓も槍も剣もまともに扱えず、御のみの俺にできるのは逃げることだ。荒野で生き延びるためにラズリ様が剣を振るったように俺も闘う術を早く身に付けておくべきだった。成熟の前に未熟の分け前を頂戴する、と南の邦の警句が云う。何一つ為さぬまま死に行く怠け者を戒める言葉だ。罠を仕掛ける者は好機を待っている。生きるのに未熟な獲物は必ず逃げ遅れる。
メディア弓兵は草原のカゼルだ。休息しながら耳が立っている。降りて一休みしておくようにキナムに言い、俺は戦車の引き革に捩れや傷が入っていないか指腹を辿らせた。車輪が踏んでいるのは地肌に這う棘だらけの草だった。水路の中にいるように思えたのは草木がまったく目に入らなかったからだ。降り積もった光の粒が水をくるんでひんやりと感じられたからだ。道は均されている。このすぐ先から戦車や荷車を傾がせる険阻な道がはじまるとは思えないほどだ。長い間に踏み固められた街道ではなく、人の手が入っているにちがいない。王族や都市王たちが儀式用の四頭立て戦車に乗り謁見に訪れた王の道。
城壁無用と思われていたこの離宮に、あるとき凶徒共が押し寄せた。腐肉の匂いを振りまく異邦の神がその歯でなにもかも貪り食い、この地に生まれ立った神々、そして歌も跡形もなくなった。この街道の下、道の先、岩屑の陰には何もない。古人は粘土板にではなく、この谷に書き遺した。ラズリ様に見つけられるまで神像がその身を溶かしたように自らを魔法にかけたのだ。わが身を隠しながら、隠されているものは必ず見出されると信じていたにちがいない。
上の空といった様子で岩肌を見ているキナムに声をかけると、ゆっくりと顔を振り向けてきた。俺に応えるためではなく、流れる綿毛を追う目をしている。
「井戸はあるのだろうか、この道には」と尋ね、思い浮かんだことを話した。「どんなふうにこの谷を眺めてみても青足鳥の由来が見えてこない。異邦の珍鳥なのか名前も聞き覚えがない。こうは考えられないか。青足鳥は滅びた都城の語り部の歌の中でだけ飛んでいたのだと。青足鳥の鳴き声を聞き姿を見たのは、この谷間離宮に集った者たちだったと」
キナムは頭上の窄まった谷の裂け目を見上げた。自分に倣えば自分が見ているものを同じように見られるのだと言っているのか。真直ぐに投げ上げられた神の槍のように青足鳥が翔けあがっていくのが見えるのか。
キナムは俺の体に背を預けてしゃがむと、象牙のような左手を俺の甲にあて、「ここには ありません あなたの 見たいものは」と俺の掌に爪を使って書いた。一文字一文字尖筆で刻するように書いた。キナムは書いたのだ。見たものではなく、見たいものと。掌で消える文字、仄かに笑みが生まれかけているキナムの顔、そこには何もないけれど、咎められていると俺は思った。
父は言った、覚師も言ったはずだ。見たいものを見たと思い込むことで過ちは始まると。それが傲慢ということなのだろう。それでも俺には感じられる、かつてあったものがことごとく消え去った後、俺にその痕跡を垣間見せようとしているものがあると。俺の見たいものとは何だろう。それはここにないものだ。永遠に立ち去ったもの、明日の連なりから訪れてくるもの。