二十代の頃、富士青木ケ原樹海近くの廃校に十日間ほど泊まったことがある。日毎ウィスキーの氷を取りにいった風穴へ至る樹海は倒木が多くて歩きにくかったが、噂の雰囲気を感じることはなかった。どのような物語がこの場所に件の徴を付けたのかを改めて知りたくなり、松本清張の本を手に取った。富士樹海を有名にしてしまった小説は、そのタイトルから『黒い樹海』だと思い込んでいた。『波の塔』だったのか。
富士樹海と風穴を舞台にしたコミックが諸星大二郎の『天孫降臨』。三章に分かれた各タイトルが「大樹伝説」「樹海にて」「若彦復活」となっており、ここでの風穴は太古の魑魅魍魎がうごめく魔界への裂け目として描かれている。諸星の作品としては、この作品が含まれる「妖怪ハンター」のシリーズよりも、『暗黒神話』や、今なお続く『西遊妖猿伝』のほうが好みだけれど、『天孫降臨』でも記紀神話や伝承、民俗学の知見がダイナミックに取り込まれて、はじまりの因縁が噴出する「伝奇」の面白さを堪能できる。「非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)」という言葉が好きなので、「多遅摩毛理(たじまのもり)が辿り着いた常世の国は富士の裾野あたりだったかもしれない」、と書かれただけで喜んでしまう。
青木ケ原は平安時代の噴火の溶岩流でつくられた地質だから、樹の海といいながら成育環境は劣悪で、樹齢の平均は300年前後だという。林学や生態系の観点からは興味深い森なのだろうが、ブナや桜、巨樹や果樹の四季などを追う写真家たちと並んで富士樹海に魅せられるカメラマンも少なくないようだ。磁石が効かなくなると噂される地で、レンズが磁力を察知するのだろうか。縁を歩き回った経験と写真集(『富士 樹海』:写真・大山行男)を併せても、私は青木ケ原に「また来ゆべし」とは思はないが。
そして青木ケ原を舞台とした米映画「THE SEA OF TREES」(邦題「追憶の森」)のノベライズを読む。なぜ富士樹海なのか、さっぱりわからん。ノベライズと映画は別物としても、渡辺謙の存在感に最高の加点を上程してもフィルムには大いなる「?」が。
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樹の海は熱帯にもシベリアにも、そして光年の果てにも存在する。星間の彼方にある深い森で出会う異人を描いたSF小説に『樹海伝説』(マイクル・ビショップ)がある。
日に日を重ねて飛びきたった惑星と云われても、このSFの森の描写はどうみても地球上の熱帯雨林そのものだ。天空をよぎるものが地球と異なるとはいえ、クルーは顔を晒し酸素を吸っている。設定はパッとしないな、と斜め読みになりかかる。
異人たちは林間の空き地に集って儀式じみた行動を繰り返すだけで、観察者には敵意も関心も示さない。言葉はもっていないらしいが、伝達に関わるのか虹彩が時に激しく変化する。彼らは何者なのか。もどかしい探索の歩みに付き合った甲斐は充分あった。開示される謎は思いもかけない不気味さで、吐息も凍りつく。進化、変異の道筋、因子は無限にあったにもかかわらず、異人たちはここに至った。読者は人類の運命を予言するアポカリプスの前に逆らいようもなく立たされる。
フィリピンの反政府ゲリラ組織に身代金目的で誘拐された十一歳の少年の物語『樹海旅団』(内山安雄)を読んだ。父親はリゾート開発を推進する現地社長。少年の言動振舞いは彼の地を札束で蹂躙する父親世代の縮小版、うんざりするほど嫌味な子供なので、ああ、これは成長物語の亜種だなと思ったが、想像は大きく外れた。人質とはいえ、丁重に扱われるわけではなく、死なない程度に容赦なくいたぶられる。少年は時に卑屈に、ある時は蔑みを糧に、しぶとく這いつくばっていく。少年は学ぶのではない。生身に現実を刻まれてゆくのだ。過酷な熱帯林の彷徨の日々。政府、反政府の両陣営にはびこる反目と裏切りの絡み合いが生む間断のない戦闘で吹き飛ぶ肉片と血しぶき。人間と土地の樹海は合わせ鏡となって、途方もなく広がり続ける。
そして最後に少年は怒りによって知るのだ、自分にも守るべきものがあったのだと。