ウル ナナム

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    王子たちの進む街道は西端に定まったとの知らせを受けて、キッギア将軍配下の戦車隊からは日没を待たずに二台の戦車とすべての荷駄、駱駝使い、護衛の軽装騎兵を先発させていた。早出したのは、青足鳥の尾羽の谷を戦車隊が大過なく抜けきる方策を探っておくためだ。八年前の様子と変わりなければ、おそらく同じであろうが、隊全部が立ち往生しかねない。
    合流したメディアの弓兵はそれぞれが替え馬を二頭ずつ連れており、振り分けにした荷袋を運ぶ馬が八頭、乳を搾るための山羊も三頭続いている。皆、輪鎖の模様を縫いこんだ白布で頭を包み、黒の革鎧で胸と胴を守っていた。月光に映え、馬上よりも王宮の宴席が似つかわしく思えたが、アスティヤデスに召命されはじめて弓師たちに見えた晩、この者たちがどのようないでたちだったのか、一向に思い出せなかった。
    我らは街道の口で王子たちを迎える。時と処の指令を何一つ受けずに行く手で待ち構える俺たちを目にして、王子は訝るだろうか、いかにして察知したのかと。
    ツァルム戦車長がアシュに一礼し手綱を振った。アシュに促され戦車を発進させて間もなく俺は目を見張った。両腕を垂らしたまま隣に立つキナムが床台に釘打たれた木像のように動かなかったからだ。馬上での曲乗りさえやってのけそうな腰の据わりをしている。稚気と思慮が一つに住まうハシース・シンの顔が浮かんだ。正しい星の下に出る術を知るスハーの子キナムは、覚師にとって捏ね上げ甲斐のある少年だったろう。
    調練場を擁しているためか一帯には鍛冶場が連なっている。しばらく炭と金気が漂う中を進んだが、キナムにとっては甲を砕いた事故の日を思い出す不愉快な匂いにちがいない。キナムの伯父エピヌーが武具を扱わないというのは表向きで、高官や部隊長の注文には応じ出来映えの評判も高いようだ。エピヌー自身が刀工の長となって火の色を検分し仕上げの槌を打つという。ハムリが俺のもつヒッタイトの鋼を欲しがったのは、刃を鍛える鍛冶職人としての興味だったとは思えないが。
    グラの嫁ぎ先はバビロンの鍛冶職と聞いていたが、鍛冶屋は都城全体で数十箇所あるはずだ、ここで目を凝らしても詮無い。新年祭の讃を唱えるのが俺だと言ったグラ。あいつはどこで俺の声を耳にしたのだろう。まだボルシッパのラズリ様の許にいて、自分の言葉通りになったのを気づいていないかもしれない。兄が妹の嫁入り先を差配するのは当たり前のことだし、まして相手は同業の者。それでも魂胆を疑ってしまうのは、ハムリの何もかもが俺を苛立たせるからだ。唾を吐くような音を潜らせて話しかけてきたはじめの日、奴の下唇は冷笑を宿したまま形を変えることはなかった。俺は気持を隠しはしなかった。そしてハムリは嫌悪の目を、時によって怯えの目を糧にする。己が相手の胸に芽生えさせる虫唾が奴を駆り立てるのだ。
    街道に着くまでに六箇所の荘園があった。どれも帰順した各地の都督たちが拝領した土地で、広大な果樹園を持っている。番小屋に篝火が置かれ、家宰らしき男たちが火の後に立ち覚束ない腰つきで目を泳がせている。見慣れないメディア兵の出現に日中ならば警戒するだろうが、真夜中の兵の通過は稀なのか。
    街道近くひときわ高い土塀を廻らせた居館には灯りがなかった。しかし息を殺して隊列を伺う人の気配があり、屋根に伏せる者たちの武器が月を受けている。荘園の守備にしては大げさなことだ。帰順をどう考えればよいのか、俺にはよくわからない。裏切り離反は、もっとも強き者たち、そしてこころ弱き者たちからはじまる。双方が誠を疑い探り合っているのだろうか。イシン王ヤシュジュブの声と顔が思い浮かんだ。ヤシュジュブの帰順は心底からのものにちがいない。ナボポラッサル王と自分との力の差を十分に測ったうえで腰を折り要職についた。度外れた忠誠心を証しだてるため、現王位を脅かす徴を暴き、種を暴き割り潰していく。ヤシュジュブからすれば咎なき者はいない。名指した者にこう言うのだ「裏切りの種が割れようとしている。自分で気づいておらぬだけだ」と。この俺を簒奪者とはじめに指差したのがヤシュジュブなのだ。王子はそのとき俺を疑いもせず試しもせず、ヤシュジュブを宥めた。同じ言葉が母から洩らされたとき、疑心のふいごに烈風が入ったのだ。母を知らぬ俺にはその力が読めない。審問官と王妃、王国の要にある二人から俺は不届きな料簡を抱く者と糾されている。明後日には帰城するナボポラッサル王にもまた、后たる人は同じことを告げるだろう。由緒を誇るアッカド王家の気位高き正后の言を剛の御方はどう処するのか。万一討手を差し向けられたら、俺は荒野の娘リリトゥの孫キナムとともに荒野に逃げる。
    街道口にはアカシアの古木が枝を広げており、根元に腰丈ほどの石像が埋まっていた。鑿痕は磨り減っているが、バビロニアのものでもアッシリアの手になるものでもなさそうだ。俺たちは西に傾いた月光のつくるアカシアの枝影の下に入り、王子の到着を待つことにした。前方に三騎、後に五騎の弓兵が見張りについた。指示の声は聞こえなかった。
    「精兵ですね」下馬して居並ぶメディア弓兵を見てツァルム戦車長が言った。街道は枝道と云える程度の幅だ。今は廃れ果てた交易地に通じていた道の遠い名残かもしれない。人跡が少なければ、大きな獅子の群れが動いていることもあるだろう。俺は下車し、アシュの戦車に近づいた。踝に夜明け前の冷気が流れる。掻き傷にことのほか効があると、戦車隊の一人が譲ってくれた乾し葉のおかげで頬の籠り熱は引いていた。
    「獅子狩りとキッギア戦車隊での訓練は后妃様が言い出したことなのかい」
    「訓練は王の意向だ。麦の種蒔きのころ王自ら父の荘園に立ち寄った。ディリムに手ほどきしたことを聞いてのことかもしれない。父はお断りした
    街道に目を向けたままアシュは答えた。
    「理由を知っているのか、アシュは」
    「知りたければ父に直に尋ねればよい。数日後に控えているのは訓練などではない。考えてもみろ、ディリムは何日私と共に走り回ったか」
    「俺は騎乗の仕方も知らなかった
    「なまくらも百日打てば剣らしきものになるということだ。こんどのアッシリアとの戦は駆け引きなしで平地での会戦で決着をつける、お互いがそう望んでいる。そのような死地で点検を怠る者たちを走らせることはできない。ナボポラッサル王ご自身がそのことをよくわかっておいでだ。動く城壁と云われる重装歩兵の堅陣を前にすると、馬たちも進むのをためらうそうだからな」ゆっくりと顔を振り向け声を落してアシュは続けた「私ははじめて父の隊に同行が許されたのだ。王子の親衛隊から外れたお前も一緒だろう」
    「額を称えよう、その日までに」俺の声は涙を含んでかすれていた。
    「冷えてきたな。夜が明ける」額を東の空に向けてアシュが言った。