ウル ナナム

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    「ディリム、必ず帰ってきて。約束してくれなきゃ駄目。だから花打ちをさせて。勇者を送り出すには何の花が相応しいのか知らないから、途中でハジルに手折ってもらったタマリスクよ。クルグリンナでは花打ちできないものね」イシャルは半泣きで言い、淡い赤の花房をつけた枝をハジルから受け取った。
    花打ちは本来、出陣を前にしての儀式、還らぬ覚悟の戦士が無事凱旋帰還することを願ってのものだ。どんな花が選ばれるのか俺も知らない。新年祭で平手打ちを受ける王は涙を流さねばならないが、戦士の涙は許されない。そして花打ちは頬から血の滲むのが好しとされるらしいが、イシャルの手でそこまでは無理だろう。
    「うんざりすることばかりで、人の心など信じられなくなりかけておりました。ここまで来てくださったこと、思いもかけない賜り物。おとめごイシャル様の花打ち、謹んでお受けいたします
    俺はイシャルの前で両膝をつき顎を上げた。
    いくつもの色の光が目の中で弾けた。涙も出てしまっただろう。花枝とイシャルの力を俺はみくびりすぎていた。イシャルの顔つきからすれば、頬に血が走っているのも確かだ。すぐに顔半分が熱くなり疼きだした。
    「どなたか水を」イシャルの声はすっかりうろたえている。
    「このままでよいのです。姫様は見事な花打ちをなされました」
    木の鏃も痛かったが、花枝が生んだ痛みは燃えながら息づいている。俺は立ち上がった。花枝の痛みが一緒に立ち上がる。イシャルは小さかった。俺と変わって跪いたのかと思えるほどだ。右手にもっているタマリスクの枝は大きかった。イシャルと俺のあいだに散り敷いた花粒が光を集めている。
    「時をつくってくださいましたよ、イシャル姫にまたお会いするための。あなたが私の肩に乗っていた邪気を祓ってくださったのです」
    口を曲げて泣き出すのを堪えていたイシャルが挑むように眼尻を据えた。水差しをもち手首に布を垂らしたキナムが進み出てきたのだ。首尾のよい侍人はイシャルの前で片膝をついた。あの子は隠し事があるとイシャルは言っていた。苛立ち、不審、イシャルが一息に飲み込んだのは何だったのか。タマリスクの花枝で、俺の血を吸った花枝でイシャルはキナムの頬をそっと撫で、垂れたままの左腕を肩から摩りおろした。キナムは俺とは真反対だ。思いを面に出すことがない、出すまいと心決めしている。仕えるとは、そういうことであろう。思いのままになど臣民には許されない。キナムも俺も否応なくバビロニア王国の臣民なのだ。ベルヌスたちが臆病なわけではない。衝には向かぬとカドネツァル王子に評された俺は、アスティヤデスの召命を受け得意顔だったろうか。
    キナムから目を離さずに花枝をハジルに戻し、油断なく水差しと布を取ると、イシャルは三度に分けて布に水を滲み込ませ、俺の頬に当てた。仕草は幼く、眼差しは大人びている。手元に戻した布を見る目が驚きに揺れ、幼い娘に返ったのは、血の痕が大きかったからだろう。
    「イシャル姫様、ご心配なされませんよう。キッギア将軍は将兵残らずの帰還こそ最大の勝利と常々申しております。いつどこで何が起ころうと、敗走の憂き目に会おうと、共に還るために逃げるのです。ましてやディリムはわが戦車隊に欠けてはならぬ者」
    これまで身動きひとつなく控えていた戦車隊のなかからツァルム戦車長が言上した。強兵の静けさは、殻を堅くし鼓動を消すのではなく、気配も熱も解き放ってしまう。メディア弓師も同様だった。俺はアシュたちを取り次いだ。
    「イシャル姫様、父王が片腕と恃むキッギア将軍の戦車長ツァルム殿と部隊の方々です。皆、父君と供に戦われています。そしてご息女アシュ様
    「皆様、取り乱し騒ぎ立ててお恥ずかしいことです。南中を待たずに朝の花を枯死させてしまう后妃の声が私を走らせました。戦に出るのではないとわかっていても、いくつもいくつも企みが埋められているように考えてしまって。カドゥリ兄様の半身があの后妃からできあがっているなんて信じられないことです。その半分のために愚にもつかない耳打ちを信じたんだわ。でも、こうして喚く私も后妃と同じね
    「父王は比類なきお方」とアシュが高々と言った。「強国アッシリアに対し、父王と共に戦うは武人の誉れ。カドネツァル王子の半身は四方世界を統べる高名な父王でできあがっております。姫様の半身もまた同じ。ディリムを護るのは、僭越な申しようながら、兄王子のお名を汚さぬことでもあります」
    「おっしゃる通り、こんなことは兄様のためにも父王のためにもいいことじゃありません。皆様方のお心遣い染み入ります」
    ハジルがイシャルに身を寄せ、一言囁いた。帰城を促したのだろう。それを見たキナムが膝をずらせてイシャルの正面に進み深く拝礼すると、花打ちを受けた頬と垂れた左腕を右手で擦り、もう一度体を屈めた。キナムもまた一身をもってと、イシャルに伝えようとしているのか、あるいは花打ちを授かった感謝なのか。水面に映る顔を確かめるように、イシャルもそっとキナムに向って腰を落した。隠し事を咎める目ではないが、キナムが何者なのか決めかねているのだろう。声はかけなかった。俺の頬を拭った布を渡すと驢馬まで小走りし、臣下の作法に則って長い拝礼をした。去っていく二人は一度も振り返らなかった。
    俺の顔を目にした戦車隊の面々は驚きを隠さず、そして愉快そうに口を揃えた。「小さき姫君ながら、天晴れな振舞でしたな。そのような花枝の痕は初めて見ました。アシュ様でも敵いますまい」「父上にも報告できるぞ。ディリムが花打ちで涙したと」「俺の真後ろにいながら何を言うか」「メディア弓兵たちもたまげるだろうよ」「正直に言うさ、勇者の徴だと。しかし、そんなに目立つ痕なのか
    「お前は痛くないのか」キナムの差し出した小壺の香油をアシュが俺の頬いっぱいに塗りのばしたので、タマリスクの花粉とクミンの香油の匂いが入り混じり、傷のひきつれが火照りだした。少しでも冷気が欲しくなったが、天幕の外も変わらなかった。
    馬を繋げばすぐに進発できるように整えられた戦車が傾きはじめた陽を集めている。夜の狩りに向う獅子たちも、このように蹲っているのだろうか。俺に用意された戦車を一巡りし、左右の車輪と車軸を掌と拳で触れ辿った。楡の木を使った車軸と柳でできた車輪が柔らかく力強く俺に応えたように感じられた。俺は車体に背を凭せて空を見上げた。顔を動かす度に頬の腫れが熾火のように燃え音をたてる。出発の刻にはきっと酷い面つきになっているにちがいない。天晴れな姫君だ。
    アシュが短剣の鞘で傷がない頬に触れた。「父上に似ていたぞ、戦車と話す仕草が。お互いを鼓舞するように、そして鎮めるように。それよりも武器を手放すな、どこにいようとだ」
    俺は起き上がり、短剣を帯に挿して訊いた。「犬どもはいつもこんなに吼えるのか」
    「犬だって刺客に仕立てられる。毒を塗った刃を咥えさせるというぞ」
    「花枝のほうがずっと恐ろしいさ。ツァルム殿の言葉、イシャル姫を落ち着かせるためとはいえ、嬉しかったよ」
    「戦車長は父上に頼んだのだ。二十日間ディリムを預からせてくれと。お前の目が欲しいと」
    「俺はそれほど遠目が利かない。アシュも知っているじゃないか」
    アシュが俺の一台向こうにある戦車に上がり、両手で車体の前覆いを掴んで言った。「遠目ではない」
    声とともに光が震える。内側から輝くのだ、アシュの額は。灯りの絶えた神廊でタシュメートゥーの神像が発光していたように。
    「樹上の目、櫓の目、丘の上の目さ。ディリムは目を飛ばすことができる。はじめの調練のとき、丘からお前の御を見ていて気づいたそうだ。お前に見えているものは他の者とは違っている。お前の目はまるで戦車長が立っているのと同じ高みにあって、隅々まで見渡しているかのようだと」
    「それは先ほどの矢合わせではじめて起こったことだ。ボルシッパでは高みどころか馬の鼻先さえ見えていなかった」
    「お前の力に気づいた戦車長の方が不思議だ。目利きは井戸掘りみたいなものだな。ディリム自身でさえ兆しも覚えなかった奥深い水脈を嗅ぎつけたのだからな」
    「アシュだって俺を父上に取り次いでくれたではないか。火の前で試されたぞ」
    「宦官に見紛うお前を推挙したのは私の目によってではない。それは多分あの場所の力さ」
    「あの穴蔵へはもう一度行きたいとずっと思っていた。いま気づいた。この剣はアシュが持っていた」
    「一度目にした武器は覚えておくものだ。運命に連れられてではなく、不注意で死なぬために」