ウル ナナム

  • 48

    遠巻きに見ていたメディアの弓師たちが一様に言問い顔で近づいてきた。汗はなかったが、刈り込んだ髪から日なたの匂いがした。調練場をいっぱいに使って二頭立て戦車を御するアシュに若者たちは気を奪われている。メディアでは尚武の女を見ることはないのだろうか。
    俺は自分の戦車に乗り、引き具を確かめてから「あの人は私の戦車の師だ、見ていよ」と言い、アシュの方へ馬を駆った。数十日も戦車に乗っていなかったから、車軸の軋み、足裏に伝わる揺れ、掌に食い込む手綱の感触に我知らず大きな掛け声が出た。アシュの戦車に並びかけ、初めのころの調練法にしたがって並足で併走し、速足でもう二周、全速力でのすれ違いを五回おこなった。小さな渦をつくる接近戦を試すと、三度反転しただけでアシュに後を取られていた。
    「ディリム、親父殿に見せられんぞ」
    久方ぶりの叱責さえ心地よかった。
    「確かに。たった三回でやられるとは」
    「一度で首尾を決められたが、あの者たちの手前、抜いてやったのだ」
    「そうか、それさえも気づかなかったよ」
    二千の大隊どうしの戦闘訓練ができると云われる調練場はバビロンの南門から十スタジオン(約1.8キロ)ほどで、四囲を日干し煉瓦で囲繞し、さらに五列の樹木帯と水路で囲ってある。明後日の出発のための荷駄も近くに集められ、メディア弓師たちも天幕を移してきていた。調練場を見渡せるよう組まれている高架台に寛衣姿のベルヌスたちが見えた。カドネツァル王子は来ていないようだ。
    俺は居並ぶ弓師たちの前に戦車を寄せ、「我が師アシュがお前たちの馬追いを見たいと言っている。クシオス、すぐにやってみよ」上気した顔つきの騎馬弓兵たちを煽り立てるように命じた。王族が自らの食い物を分かつことがメディアでは玉璽を賜るのと同じ重さがあるようだった。年回りが変わらぬ異国の俺に対し、弓師たちは額づくばかりにへりくだっている。高架台と向き合う側の壁近くまで戦車を移すアシュについて俺も早朝の影が伸びる木の影の下に入った。馬柵に向って走る姿にもメディア騎兵隊の厳格な統率が見て取れる。
    「馬を使わずとも素軽い奴らだな」アシュには珍しいやわらかな口調だった。
    馬群の先頭はバルス、最後尾にクシオスがいる。若者たちは巡り方を違えながら並足で調練場を四回ずつ走らせた。三十六頭は長い布が風に乗っているようにゆったりと流れていた。やがて馬群は二つに分かれ、三隊に割れて伸び縮みを繰り返した。矢を取り番える速さは息を呑むほどで、馬の腹と兵の背にある箙のどちらから引き抜いたかさえ見逃していた。予備兵の手練さえ侮りがたいとすれば、本隊が駆け回る戦場の様はどうなるのだろう。
    「ディリム、私の左に」俺に御を務めるようアシュは言い「試してみるぞ、ディリムの力のほどを。未熟者なれば留守居役としてもらおう。カドネツァル王子もご覧だからな」と真顔で付け加えた。俺はアシュの命じるまま、横隊をつくっている弓師たちの馬を掠める近さに戦車を寄せ、反転して背後を駆け抜けた。若者も馬も間近を戦車に走られるのは初めてなのだろう、正面に戦車を出したとき、メディアの馬の半分が落ち着かない動きを残していた。横隊の真ん中に戦車を突っ切らせ「取り囲んでみよ」と怒鳴ると、何人かが怯まずに馬首を返し、追う態勢を取ってきた。馬群を廻して包囲しようとクシオスが発する声は集散の符丁らしく、たちまち乱れが収まった。俺が遁走の態で調練場の北角に向けて突進し急反転すると、慣れない馬と乗り手は大きく左右に傾いで道をあけた。それでも寄せてこようとする幾頭かの騎兵を車体で小突くように振り払ったが、メディアの馬を傷つけずに終えるのが俺の技量の精一杯だ。俺は二度クシオスの進路を斜めに横切って前進を阻み、一気に北角に封じ込んだ。戦車から降り、クシオスに話しかけるアシュの言葉を俺は取り次いだ。
    「戦車の動きはわかってもらえただろう。矢合わせを所望したい。兵をまとめて東の馬柵の前に」
    「ディリム様、馬たちを守ってくださりありがとうございました」荒い息のままクシオスは一礼した。
    「当たり前だ。メディアの天秤では馬一頭、兵二十と聞いたからな。見ての通り俺も必死だった。お互いよい訓練になる、今一度手合わせしよう」
    戦車に戻ってアシュは拳で左胸を叩いた。赤染料を塗った矢を使うのだ。ボルシッパでは何日もの間、訓練の後は全身に散った染料を洗わねばならなかった。「しっかりしろ、このままでは染み付いて落とせなくなるぞ」とアシュは毒づき、俺の横で裸の胸を擦った。二人とも上半身裸で戦車を乗り回したのだ。
    諸肌になった俺の胸と左肩甲骨の下にアシュは消し炭で丸を書くと「ディリムの気が散って御の手元が狂うとまずい。私の的はここだ」と言い、乳房に巻いた白布の上に自分で丸を書き背を向けた。
    「そのまま伝えろよ」と言うアシュには従わず、メディア人たちにそれぞれ的を書かせ、盥の赤い水に漬けた矢を二本ずつ配った。
    「十二名ずつの隊をつくるのだ。お前たちの矢が私たちどちらかの的に赤を印したら、そこで勝だ。その前に的に当てられた者、二本とも矢を外した者はすぐに下馬して離れろ。アシュが持つ十二本のうち一本でも外せば、そのときもお前たちが勝を取る」
    「あの方はどんな揺れのなかでも一度も車体に手を触れず、腕を組んだままだった。よほど気を引き締めてかからぬと大恥をさらすぞ」模擬戦の準備で上っ調子になりかけた仲間を諌めるバルスの声を後に、俺たちは高架台の下へ歩いた。櫓にはアシュの言ったように王子の姿も見える。王子や九人と離れた場所に数人の男たちが立っていた。王宮とは違い、厳しい誰何があるわけではないが、王子の近くに平然と控えているのだから王家に連なる人々かもしれない。アシュと俺は膝を折って拝礼した。思った通り、上からの言葉かけはなかった。
    バビロニアとしては、メディア王子の懇請に異を唱えるのは無理だったろう。カドネツァル王子を飛び越えて俺がアスティヤデス直属の兵を預かる大権を持ったことは、あれやこれやの憶測を走らせた。なによりもカドネツァル王子が不快を隠さず、口を極めての俺への賛辞が瞬く間に覆った。メディアから第一に望まれたことが俺の罪。王子が磊落さを示すのは、己の望むものが満たされたうえでのことだ。不興の元が王子とあっては、ドゥッガの忠告も空しい。アスティヤデスは同盟国の中枢を値踏みするつもりで、メディアに関わりがある俺を利用しているのかもしれない。戦勝国として並び立ったときの世継ぎの器量をはかることぐらいはやってのけよう。
    砂漠で月光に照らされるごとく、俺は逃げ場もなく這い回ることになる。意に沿わぬ将を死地に遣わせ葬る話は文書にも数多ある。獅子狩りの中で後矢を打たれ、メディアに救われた命がメディアの思惑で奪われることになるのか。
    「御曹司はなかなかに分かりやすいな。ディリム、こんなことで血迷うなよ。メディア人たちの勇武は噂通りだ。メディア王子はたばかったな。こいつらは若いが、少なくとも六人に兵を率いる才がありそうだ。どのような目で見られていようと、我らは戦車を楽しめばよい。それだけの値打ちはある」
    アシュの言に押され、俺は手綱を取った。死に場所は選べないが、戦いは俺の手の中にある。