ウル ナナム

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    俺たちは先頭を行くカハターンについて王宮広間の横手に回り、罌粟の花色の焼成煉瓦を廻らせた壁の前に並び立った。壁に半ば埋め込まれた化粧柱の龕灯にはすでに明かりが入っていた。火の番人は肩脱ぎの屈強な連中だ。参集した貴顕は六百人を超えているにちがいない。贅と技を凝らした衣装宝玉が沸騰している。俺たち九人が身に付けた青衣は広間の熱気に紛れることなく静まっているだろう。
    広間の人群れは、咲き乱れた花がてんでに風に捩れているように見えた。皿の運び手や給仕人は花群を滑る蝶。酒器を背負った少年たちも注ぎ手の少女とともに軽やかに流れている。イシャルが悪戯心を起こして紛れ込んでいそうな年回りの少女たちだ。
    俺は貴顕の習いに疎い。額に金粉を塗るような太守総督が集う宴は初めてだ。人声が聞こえてこないのは、王が出御するまで言葉を交わしてはならないとの黙契があるのだろうか。身に着けた重い布や溢れ零れる料理を持て余して、誰もが気だるそうな口元をしている。熱気を醸しているのはお歴々ではなく、椰子の筏に乗った羊の炙り肉だ。切り分けられた肉塊が細身の櫂によって供されている。
    上の海と下の海を統べる王に俺は蹤いて行くのだ。櫂は俺の台石。櫂は武器になり、鋤にもできる。しかし決して皿にはならない。
    「これだけ大勢の寄り集まりの中で、不機嫌な面を曝しているのはお主だけだぞ。大人気ないことよ
    覚師を思わせる苦言は、覚師ではなく芳しい若木の声だった。見渡しても、俺に向けられている目はない。近くには青衣の仲間と火の番人がいるだけだ。驢馬たる俺の耳にさらに声が流れ込む。
    「書記にして戦車を曳く者であるお主が何ゆえに見かけの役割に拘る。櫂は櫂か。櫂を取れと謳ったお主が櫂はただ櫂であれというのか。それでは深淵に触れることは叶わぬ」
    櫂のことを言うからには、今ほどの俺の目の行方に気づいている。思いがそのまま顔に出ると云われた俺だ。高所の梁、四十歩離れた化粧柱の後ろからでも俺の苛立ちは読めるだろう。しかし思いを掴めても、ただ一人の耳に言葉を注ぐことはできない。
    ありえぬことが起こったとき、それは俺が夢の中にいるということだ。夢のはじまりを知ることはできない。人は門を潜るように夢に入るのではない。いつもすでに夢の中にいるのだ。
    俺は櫂だ。濁流に咬みつき、浅瀬を這い登り、水を切って進んでいるのを感じるだけだ。ハシース・シンは俺の漕ぎ手。覚師が俺を皿の代わりにしたとはき、頑なに身を傾け肉片を振り落とそう。「大人気ないのう」と詰ることもなく、覚師は呵呵大笑するように思える。
    肉片を届ける漕ぎ手の技は実に見事だ。差し伸ばされる櫂は、犇く耳飾りや髭を擦ることなく蔓のようにうねり、ときに傾き、それでも肉片は落ちることがない。俺が倣おうとしても肉を取り落としてしまうだろうから、抗ったことにはならないわけだ。
    若木の声がまた聞こえてきた。「火の妹よ。赤馬は巴旦杏の実に隠したぞ。青牛を塩の道へ放つのだ。黒羊に縞蛇を踏ませよう。………………。明日、裏切るだろう、白鷲は白鷲を」メディアの言葉だ。俺の知らない語も挟まっている。呪文なのか、合言葉なのか、俺には意味が取れない。メディア人の夢の岸辺に打ち上げられたか。夢は水脈、見知らぬ者とも繋がる。
    「火の風よ。白馬は糸杉から現れた。赤牛は薬師から遠ざけよ。青羊は明けの星見ることあたわず。………………。新月を待たずに裏切るだろう。黒鷲は黒鷲を」言葉が回っているから、戯れ歌とも思える。今バビロンに来着しているメディア人の総勢は数百人だろう。この広間にも少なからず混じっているはずで、すでに酔言を洩らしている者がいるかもしれない。櫂は間違いなく俺一人に向けられた言葉だったが、メディアの歌が流れ込むのは何故だ。ベルヌスが夢で哀歌を聞くように俺の耳が名指されたのだろうか。
    王宮広間最奥の銅葺き円柱の両翼から九人ずつ喇叭手が現れ、すぐに頬を膨らませた。俺の耳は鳴り渡っているだろう喇叭ではなくメディアの呪文を聞き続けたが、王たちの入場とともにメディアの言葉はかき消えた。
    大卓の左側に着いたのはバビロニア王族と大祭司、そして紫衣のカルデア王。卓の右半分を占めるメディアの客人の中心アスティヤデスは長と一目でわかるいでたちだった。純白の長衣に金の肩掛けと帯、被り物は紫と金の尖り帽。アスティヤデスを囲い込んで立つ三人の男は腰の短剣に手を添えて悪びれる様子もない。同盟国とはいえ、気を許してはいないとの構えをこれみよがしに取るのは、彼の邦の習いなのか、それともメディア長子の剣呑な質からくることなのか。メディアからの一行にサームは見当たらなかった。
    わが邦の女王、姫君、女官たちは、中央の卓を斜め後ろから見下ろす壇上で重なり合っている。綴れ織りの天蓋がつくる深い影で一人ひとりの顔は見分けられなかったけれど、イシャルのような幼き者が混じっているとも思えない。
    銀の酒器を抱えた献酌官がナボポラッサル王とアスティヤデスの金盃を満たした。王は二言三言メディアの王子に声をかけ、一気に干して卓に盃を伏せた。アスティヤデスは縁に唇を付けただけで、盃を傾けなかった。アスティヤデスが俺と同じように酒を口にしないのだとしても、メディア王名代の振る舞いに、バビロニアの重臣連は不快だろう。
    アスティヤデスは盃を置き、盾なす男の後ろに侍している男から玉を鋳込んだような函を受け取った。
    「ナボポラッサル大王はじめ皆々様から頂戴した品々は、一望叶わず窮まり知らず、この王宮の天辺を抜くことでありましょう」アスティヤデスの声は鋭く甲高かった。
    「われらがお応えするのは、到底適わぬことなれど、能うかぎりの品々を広げ参らそう。金の種枡を三百、銀の種枡を五百、駿馬五十頭、牡牛二百頭、牝牛三百頭、舞姫七十人、楽人七十人、青輝石の大甕が二十、東国の布が百巻、宝剣百振り、オリーブ油を三百甕、十二種の玉を鋳込んだ皿を二百枚、香柏五十柱。そして最後に、われらからの進物はこの匡の中、ニネベの閂が解かれた時、ご当地王家に捧げることをお誓い申す」
    アスティヤデスは最後までメディアの言葉を使った。彼の地の礼法はわからないが、バビロニアでは無作法と謗られるのだ。アスティヤデスがまったくアッカドの言葉を解さないのならば、代読させれば礼には則っている。ナボポラッサル王とカドネツァル王子は通詞を介さずにアスティヤデスと話を交わしていたようだが、メディアの言葉は敵地ファラオの言葉より遠い。邦人も異邦の客人も大半は聞き分けられないだろう。贈答の数々は豪気だけれど、ほとんどのバビロニア人がそれを味わっていない。