ウル ナナム

  • 27

    私は振り返らなかった。振り返ってそこに見えたものが、どこに私を連れ去るか知れたものではない。あの人に繋がる今ここに見えている無花果の木だけを頼りにしよう。旅ではどんな些細なことも見落としてはならないけれど、その時私は何も見まいと思い定めていた。高熱と痛みに耐えているだろうあの人には時の一粒一粒が命を削り落とすようなものにちがいない。わずかな距離を行き来するのに、我を忘れてうろたえ、自ら眩暈を呼び込んでいたような私があの人の命運を握っている、弄んでいる。私は向かい風に逆らっているようなものだった。風の中にはあの人の容態も先行きも今の様子何もかもが混ざり合っている。井戸の端で眠ってしまったとき、気を喪っていたとき、街道を通りかかった者があったかもしれないが、商いも軍の移動も盛んな赤い砂の国の主要街道に人の気配が絶えたままなのは奇妙なことだ。
    幸い驢馬は素直に歩いた。齧り取られたみたいに欠けている驢馬の左耳を見ていると、蛇を咥えていた鳥の嘴が思い出された。驢馬の歩み、その頑なな姿はしばしば融通のきかない愚か者にたとえられるけれど、遠くまで行く者はそのようであらねばならないのだろう。
    愚かであっても無力であってはなりません。いえそうではなく、愚かなことを為すためには大きな力を持たねばならないはずです。力ない者が愚かなことを為して成就するとしたら、それはなにゆえだと思いますか、ディリム・ディピ。
    以前から呼び習わしているかのようにラズリ様は新しい名でもっていきなり俺に声をかけた。
    ディリム・ディピ。この地でもっともナブー神に近き者たるラズリ様が呼んでくださった
    。人は名づけられた者になる。「ディピ」すなわち俺は書き記す者になるのだ。
    「旅では一日一日旅の掟を学べ。自分は今日誤りを犯してしまったと省みることができるのは稀なる幸運なのだと銘じておけ」とわが父は申しました。「旅にあっては、確かに愚か者では生き延びることはできないでしょう。とはいえ、取り返しのつかない振る舞いや過ちこそが隠されていた扉を開くきっかけになるようにも思います。どんなことも一度は起こります。いつも初めて起こります。それが二度となり三度となれば、そこには天のはからいがあるのではないでしょうか」
    「私はあの人を石切り場から解き放つために使わされた者。この人は余人の為しえぬことを成就するために生を全うすべきなのだと、天が呼び寄せようとする場所にこの私が連れて行くのだと信じようとしました。でも私はこの千古の地、ボルシッパを自ら選んだのではなく、吹き寄せられたようなものです。追い出されることがなかったのは、あの場所を除けばこのボルシッパの右岸だけ。そしてあの場所はといえば、追いやられ閉じ込められたのだから、ニサバとバシュム、右岸の二つの丘だけが星々の呪いを斥けてくれたのです」
    「たとえそうであっても、ナブー神像を見つけられたのはラズリ様です。ラズリ様は星々の呪いとおっしゃいましたが、私は星占を信じぬ者です。この世で決して変わらぬものは星辰の動きのみ。変わらぬもので変転きわまりないわれらの行く末を占うなど理に合わないと考えます
    「奥義を心得ぬまがいの輩はいざ知らず、星占は今宵ここにある星の動きを読むものではありません。星の声、星の夢のひそやかな波動滴りを感じ取り、私たちの言葉に移し替える、それが星占というもの。カルデアびとを軽んずるわけではありませんが、彼の者たちが豊作凶作を予知する力は、脈々と伝え来った膨大な星読みの智をもってすれば、さして難しいことではありません。その予言は記憶と計算に拠っていますから星占とはちがうのです」
    夜の天空だけに目を凝らし続けているカルデアびとの中には、白昼の空にも星を見る者がいるという。見るというより、星のありかを体で受け止めるのだろう。あの者たちは一夜一夜の星見を決しておろそかにしていない。千年変わらずに続いていようと、今宵星の地図が書き換わるかもしれないと備えているのだ。星占を認めない俺だが、前々からカルデアびとと話してみたいと思っていたので、覚師に随いて新年祭に出るのは心躍ることだ。ラズリ様がみつけ出した神像とともに乗船することに俺は初めて誉れを感じた。神像に気づいたときのことをラズリ様はこう言ったのだ。「水が光ったのです。碧玉の瞳が開いたのでしょう。あの人が召されてから月一巡り半でしたから、あの人はナブーの現身だったにちがいないという気がしました。今でも少なからずそんなふうに思えるのです
    いつの間にか席を外していたらしく、一人の女が火桶をもって現れ寝椅子の足元の火鉢に炭を入れた。そして壁穴を塞いでいた木片を一つ引き抜いた。穴の向こうはイナンナの星が瞬きはじめる刻の澄んだ青になっている。今宵は半月ではないが、半月の夕餉に供される兎とヒヨコマメと香草の煮込みの匂いがした。煮込みをこしらえているのはグラかもしれなかった。グラは左手で巣穴から出てくる兎を捕らえすぐに右手で絞めてしまう。兎はもがく暇もなく四肢を垂れる。天の神々はあのように俺たちをつまみあげ、瞬きもなく冥府に送り込むのだろう。
    驢馬が小さく足踏みして歩みを止めた。鴉だろうか、禿鷹だろうか。私は叫び声をあげた。鳥を逐いはらうために、恐怖のために、闇雲な怒りのために。おそらく、あの鳥のような叫び声を。あそこにあるのは骸ではない、あってはならない。私は守り刀ひとつ身に帯びていなかったので、なにものとも戦う術がなかったので、自らの喉を破る声を振り回してあの人の許に走った。鳥どもはすぐに飛び上がらず、塵を掻き上げるように爪を立てた。取りすがったあの人の手は日向に忘れられた凝乳のようだ。汗と熱には希の一かけらがある。あの人が呻きとも囁きともつかない声を漏らした。
    「生きるのです。私たちは生きるのです」
    私は赤い砂の国の言葉でそう言ったつもりだったが、声になったのは私の知らない別の言葉だった。
    誰一人耳にしたことがない言葉を、ある日ふいに喋りはじめた子供の話を俺も聞いたことがある。いずこから言葉の神が飛来するのだろうか。ラズリ様なれば不思議でなないが。