ウル ナナム

  • 25

    腰を屈めて歩き出したあの人は当て所なく逃げているのではなく、道を定めているようでした。明らかに足を速めていて、私は何度も姿を見失いそうになりましたが、光の粒が瞳の中に居座ってしまったようで周りが見えにくくなってもいたのでしょう。その時はじめて、あの人の声を聞いたのです。自分の居場所を知らせるための短い合図。この声が私の名を呼ぶのだと思い、私は胸震えました。私の耳は星々の足音ではなく、この声を聞くためにこそあるのだと思って。
    鷲座が姿を現わし冠座が去り行く間の月に誕生した姫は鷲と冠を旅する神殿の申し子として祝福され、王国の行く末は光輝溢れるものになろうと賛仰の声が絶えなかったのだ。そのお前がこの男の声だけを聞くために、自ら天秤を傾けた。お前が裏切った鷲の三星は凶星となってお前たちの歩みを阻み続けることになるだろう。
    その井戸のあった場所は私には吹き溜まりにしか見えませんでした。性悪山羊の毛玉のように絡み合う藪をあの人は槍先で掻き分け、左手で掬った水の臭いを嗅ぎ舌先で舐めてから、大丈夫というように私を促しました。水は塩気が強くて、茨で隠すほどのものとは思えませんでしたが、さらに一歩、次の一日を歩き通すための用意を何一つもたない身には大いなる恵みでした。私たちは多くの人の助けを受け、また天の御使いとしか思えぬような方とも出会って旅を続けましたが、なによりもあの人の水探しの力こそが私たちを苛む砂の猛威を退ける盾でありました。
    「崇めるべきは井戸掘りたちだ。あの者たちは三年掘り続けてようやく突き当たるような源を徴ひとつない地表で感じているのだ。私などは水が現れている井戸を見つけるだけで、獣たちとなんら変わりはしない」五十七個目の水場に辿り着いた旅の途中であの人は言いました。
    あの人は私の間近に身を寄せ、たじろぐほどじっと目を覗き込んだ後、担いでいた織物の端を槍の穂先で裂き水に浸すと私の目に当てました。炎熱に焼かれた目は渇きよりも危ない状態だったと、後に言葉が通じ合うようになって聞かされました。
    言葉が通じ合う。そうだ。今語られている言葉はどこの国のものなのだろう。赤い砂の国か。それとも天に接する銀の山国の言葉か。俺は初めて耳にするのに理解できている。ラズリ様に仕える女たちは聞き分けているのだろうか。
    渇きが癒され、目の中で沸き返っていた光が鎮められると、日盛りを歩き続けた疲れが押し寄せ、私はその場に倒れ伏してしまいました。あの人が布を水に浸し直し、目が冷やされたのを二度までは覚えていますが、いつの間にか寝入ってしまい、われに返ったのは蝿の翅音のせいでした。あの人の耳の傷に蝿が群がるさまは瀝青の煮鍋を見ているようでした。
    槍にしがみつくようにして震えを抑え込もうとしていたあの人に、私は十数度口移しに水を飲ませた。わななくひび割れた唇は足元の熱砂と同じだ。探索の部隊が出てくるのはそう先ではないはず。ここ三年間、負け戦を知らない父と兄が率いる軍団にひとたび事態が伝われば追っ手は迅速に走り来るだろう。王宮と神殿は早馬で一日半ほど、小娘と逃亡奴隷を捕捉するのは手もないことだ。井戸が苦もなく見つけられたのだから気休めに過ぎないけれど、私は井戸の周りを覆っていた藪を引き摺ってあの人を囲った。
    「私はかならず戻る。獅子よりも追手よりも早く戻る」とあの人に言った。意味はわからなくても決意は伝わるだろう。獅子よりも追手よりも、そして冥府の鳥よりも早く戻らねばならない。
    まだ影は長くはないが、陽は大きく動いていた。お前は街道から井戸まで時をかけて喘ぎ上ってきたつもりだったのに、無花果の幹の間から見える道は、思いのほか間近だった。街道の向こうは勢いのない潅木と人の丈を越える赤茶けた泥岩が散らばっていて、ものみな霞むなかで、茎の細い薊の花色が目を引いた。お前の姿も同じだ。街道がいまだに目路のかぎり無人なのは、急ごしらえの関が置かれたのかもしれない。人目を避けていたお前はすぐにも人を人家を見つけ出さなければならなかった。
    あの人がまっすぐ井戸を目指していたのとはちがい、私はただ闇雲に南へ向かって街道を見下ろしながら走っていた。無花果畑の地主の住まいから遠ざかるばかりということもあるが、踏み出した方へ進み続けるだけだ。足を止めると汗が吹き出し、喉や腕や胸の間を舐めるように流れた。その度に蝿どもの翅音が嘲笑うように甦り視界を青黒く染めた。
    私を初めに見つけたのは犬だった。横腹が油を塗ったように滑り光っている。いきなり現れたと感じたのは私の方で、もちろん犬はとうに嗅ぎつけていたはずだ。あの人の耳の爛れが侵入者があることをこいつに告げたのかもしれない。小走りの私が息を整えるのに二度止まっただけだから、井戸からそれほど離れてはいないだろう。犬と並んでいる男は私とほぼ同じ年嵩だった。犬と若者はまったく同じ目の配りをしている。目を合わさず目の端でこちらを窺うのだ。
    そのての犬は俺も知っている。父の目を避けようとする犬を見たのはそいつだけだからよく覚えている。その犬の毛もまた、犠牲獣の血を流す溝みたいに鈍い色に光っていたのだ。
    この犬は背を向けたら噛みかかるに違いないとお前は感じた。それでもお前は頼まねばならない。お前に祈る神はないのだから。
    「この果樹園の持主はお前の係累か」気位高きわが母の口調を真似て私は居丈高に尋ねた。
    「親父とお袋は」と言いかけて、若者は目を伏せ「父と母は夕暮れにならないと戻りません」と呟くように答えた。上目遣いに私の胸を盗み見る男の睫毛は女官の一人を思い出させるほど長かった。粗織の寛衣から突き出た両手は耳を吊っていた奴隷役人のように逞しい。
    「獅子に襲われて怪我人がいる。三人の者たちが私を守って傷ついた。私は何としても神殿にこの身を運ばねばならぬ」若者と犬を油断なく見据えながら私は構わず並べ立てた。嘘や作り話を吐き出すことに何のためらいもありませんでした。私は腕輪の一つを抜き「これをわが父王に示せば礼は思いのまま授けられよう。出せるだけの塗り薬と水を満たした皮袋、敷物と外套と干し果物を積んだ驢馬一頭を急ぎ所望する。どれくらいで戻れるか」
    「急ぎます。姫様」若者はすぐに背を向けた。
    「待て、名は何と」
    走り出しながら答えた男の名をお前は聞き取れなかった。男と犬は捩れた幹の間を一縫い二縫いして見えなくなったが、疑り深そうな黒犬の目がそのまま残っているように感じられた。お前は苛立ち不穏な言葉が溢れくるのを抑えかねて無花果の葉を毟り取った。葉鳴りはすぐに静まり物音が絶えた。両手の甲に赤と青で塗り分けられた星宿の護符は汗と砂で薄汚れていた。神官たるお前の役割は夜明け前、一日も欠かさず井戸の水を汲み、甕に注ぐことだと教えられていた。甕の数は月の顔だけ丸く並べられているはずだった。たかだか百数十年続いているだけの王家、さしたる謂われがあるはずもないのに、大仰な儀式をつくり上げたものだ。それはお前の王家に伝わるものではなく、この赤い砂の地に土着していた先人のものだったのかもしれない。