ウル ナナム

  • 5

    バルナムタルの酒精の香が漂い、ハシース・シン様の声がする。覚師は上機嫌だ。相手の声はくぐもっているので杯を酌み交わしているのは胴真声のバルナムタルではなさそうだ。円く切り取られた夜空の中で数え切れない星が洗い桶の葡萄みたいにひしめいている。寝藁はたっぷりと俺を包んでいる。円い空だと。しつこく絡んでいた臭いも搾りかすのような疲れもなくなっていたので、俺は時と場所を取り違えていたのだ。
    慌てて起き上がる前に覚師が言った。「お前はどうも帰るところを忘れるな。しかし着いた場所は正しい。ここの井戸の水は旨い、お前は水探しの勘もあるようだ」
    すべてが一気に甦り押し寄せ、俺は頭を垂れた。
    「すでに何もかもお聞き及びでしょう。面目ございません」
    「たしかに愚かなことをした。余計なことであり、本来であれば咎めも小さくはなかったろう。ところが愚の極みがバビロニアに朗報をもたらしたわけだ。ディリムを救った男、あれはメディアの将軍サームだ。そしてこれなるはもう一人の救い主、キッギア殿」
    二人の姿はほとんど影の中で、黒鋼のような義足だけがはっきりと見分けられる。俺は身に何一つ着けておらず、動くと仄かに香油が香った。
    「あの後、あなた様を煩わせてしまったのですね」
    「ほとんど娘の為したことだ。自分を女と思っておらん娘だから気にするな」キッギアの横顔は星明りの下で石壁に彫られた戦士のようだ。
    「同盟するという噂は耳にしましたが、メディアの将軍だったとは。」
    また会うこともあろうと言った将軍の声を思い出し、俺は我知らずヒッタイトの鋼の鞘をまさぐっていた。布一つ身につけていないのに、ふくらはぎに革紐で結わえた武器はそのままだった。
    「軍の力を測るならバビロンの王の本軍を見ればすむではありませんか。」
    「同盟を正式なものにする前に軍の編成を見たいと城市を巡察していたのだ。本心は分からん。バビロンで閲兵を受け、ニップル、シッパルを視察し、このボルシッパを最後に再びバビロンに戻った。ボルシッパ総督に、今日はいいものを見せて戴いた。出向いた甲斐があったというものと実に鄭重に礼を言ったそうだ。同盟は今やどちらにとっても欠かせない情勢だ。それを相手がより切実だと思わせてしまうところが、なかなかのものだ。丸め込まれた、言い負かされたと相手につゆ感じさせないのが交渉だ。ディリムは父御とともに商いの場に控えていたから、そのあたりの駆け引き機微も知らぬわけではなかろう」
    皮袋の揺すれる音がし、酒精がひときわ強く香った。
    「何をもたらせたにせよ愚の極みでした。アッシリア軍を躍り上がらせることになりかねなかった」
    「そう言っている今のディリムがもう一度あの場所に戻ったとしても、お前はまったく同じように振舞うだろう。それがお前の本性だ。将軍サームにはそれが分かった。そのように動くお前を気に入ったのだ。お前の本性に気づく者がその場にいたことが定めとも言える。それをして星の道が数百年に一度出会うような徴と見れば、一国の運命とまで話が広がることになる」
    「私がのこのこ出て行こうがどうしようが、もとよりメディアは同盟をなす心積もりだったにちがいありませんから一国の運命とは言えないでしょう。でも、将軍が自らの手で俺を助けてくれた、消えかけた俺の運命を黄泉の扉の前から投げ返してくれたのは数千年に一度の星の巡り合わせのようです」
    「私に言わせれば、お前はただの身のほど知らず」
    俺の真後ろで女の声がした。振り向くと寝藁の中に人影があった。
    「お前、男のくせにまともな筋肉がついていないぞ。それでは狼と呼ばれるアッシリアの矛の前で麦穂のように刈られる。武器だけは不相応にも親父様が賜った剣といい勝負だ。あまりに見事なので研ぎなおしておいた」
    「武器だけではないぞ。アシュはお前の爛れかけていた背を自分の身をもって癒してくれたのだ」と言う覚師の声は愉快そうだった。
    傷が癒えたばかりではない。俺は今までにないくらい身体が伸びやかに感じられる。
    「私の痛みを拭ってくれたということは、あなたがその身に引き受けたということになるのではないか」
    「抱きしめていたからといって、お前の傷がこの俺に貼りつくものか。お前、男のくせに酒も飲まないようだな。お前の身体には一滴の酒も入っていないぞ」
    「男、女の問題じゃない。俺の分はいつもハシース・シン様が干してくださるのだ」
    「ハシース・シン様は特別だ。この方は歩く皮袋だ」
    「アシュ、口が過ぎるぞ」キッギアの口調は咎めているのではなく、合いの手のようだ。
    「おお、四方世界のみならず、化外の地までのありとあらゆる酒神と懇意になるのが私の夢だ。言葉を知るにはまず地酒からだ。いかなる荒れ野、辺境の地であろうと、人が住む気配はまず鼻が教えてくれる。それは糞の臭いだとよく言われるが、それは違う。酒の香は日々垂れ流される糞などよりはるかに遠くまで生きている人間のことを伝えるのだ。ところでアシュ、酒一滴もないディリムの体の中には何があった」急に真顔になった覚師の様子が眼に見えるようだ。
    「大雨の時みたいだったな」アシュは獲物を手繰りよせるように、一言一言呟いた。「音が大きすぎて何も聞こえない、そんなふうだった」
    「それは俺の体というより、この天と地のことじゃないか。俺の体は天地を奔る大洪水の一滴だ。天と地の間にはこの世が始まってからの音がなにもかも残っている。風、裂ける岩、瞬き、打ち合う剣、葦笛、翼、熟れる葡萄。俺はいつもそう感じている。そういえば俺はさっき夢を見ていた。アシュ、よく顔を見せてくれ」
    アシュが不意に立ち上がった。闇の中でも彼女が素裸なのがわかった。
    「ここの井戸の水は酒よりも旨い。汲んでやるからこれを着て一緒に来い。俺たちの背丈は同じだ」
    覚師とキッギアは何も言わなかった。