リレーコラム

  • 林崎 徹「ウル ナナム 3」

    (不定期連載)

    3

    光のせいなのか俺の答のためなのか、眉をひそめたグラの見かけは、ひと炙りした麦粉のように瞬きの間に変わっていた。覚師たちと出会った時のラズリ婆様はこの横顔を朝焼けの中にさらしていたかもしれないという気がした。
    「ディリムはどこで夕陽を見るの」その声音はもとのグラだった。
    「文書倉の屋根だよ。心配ない、覚師もよく酒壷を抱えて上がってくる。ここだけの話だがハシース・シン様が心底崇めているのはナブ神よりも麦酒の女神ニンカシなんだ」
    グラは声をたてずに笑い、上掛けをたたみながら「先に帰る」と言った。「ディリムはあとから」と立とうとする俺を小声で制した。
    星を浴びてたゆたっていた運河の水はいま麦穂の呼びかけに応えようとしている。ありとあらゆるものが、ゆったりとした朝の身じろぎのなかだ。城市を要に運河と麦畑と果樹園が目地のかぎり広がり、朝もやに溶けている。
    カルデア人の占い通り豊作が三年続いている。望外の幸いは影を呼ぶが、いま誰もが案じているのは凶作の記憶ではなく戦の気配だった。この三季にわたって、わが軍勢とアッシリアとは一度も大きな矢合わせがなかった。両軍は獅子のように目を据え、唸りをあげて間合いをはかりながら砂ぼこりを巻き上げるだけだったという。秤はかすかに揺れながら均衡していたのだ。戦闘がなかったとはいえ、軍旅を解かれた兵士の大半が目を血走らせていた。
    ボルシッパの兵は弱いといわれている。それは遍く知れ渡ったことなので、アッシリア軍が生贄の手始めにこの市を狙ってくるだろうという噂はすでに日々の挨拶となっている。
    弱兵だというのは本当だ。十一人の書記生と兵の訓練を見に行ったときのことだ。大楯を持つ槍兵と軽装の弓兵が太鼓と角笛の合図に合わせて移動を繰り返すたびに土埃がふんだんに巻き上がった。兵が走り革と鉄が匂う。いっせいに射られた矢は降り注ぐ白い光を斬るようだった。俺はそれまで並足で行軍する兵しか見たことがなかったので、眼にするすべての動きは機敏でありながら重々しく、頼もしいものに思えた。
    「はじまるぞ」と俺たちを連れてきた年長の学頭が言った。
    兵が大きく動き矩形の囲いをつくった。構えは三段で、楯が隙間なく寄せられその間から長槍が突き出された。開かれた一辺を大葦の束で覆われた囲いが塞いでいた。軽装歩兵たちが走りよって葦束を取り除けた。猪の檻は十八だった。丘に着いたときから猪の強い匂いがしていたので気にかかっていたのだ。猪は狩るより生け捕るほうが難しいはずだ。
    「戦車相手の訓練だ。命を落とす兵も出るそうだ」学頭の声が上ずっていた。
    十三頭の猪が囲いの中央まで勢いよく飛び出し、四頭は檻の前に止まり、一頭は檻から出ようとしなかった。与えられた中庭を十三頭の猪は小走りに行き来を繰り返していた。途方にくれているように見えた。楯の壁に不意に突きかかっていったのは檻の中に残っていた一頭だった。兵士たちの槍先は猪の巨体に向かわず、地を削り空を泳いだ。拳ほどの土塊が山崩れを起こすという。十八頭の猪は黒灰色の濁流となって跳ね回り槍に向かって突進し、無理やり楯の隙間に鼻面を押し入れた。六頭が胴や背に槍を突き立てたまま走りまわっている。まったく動かなくなった猪は七頭だ。倒れた兵士の数より少ない。
    突き崩した兵団をそのままにして逃げ去る猪は一頭もいなかった。猪の一頭一頭が復讐神のとり憑いたような目で腰のひけた兵たちをねめつけると、怯えた男たちの気息が低い雨雲のようにたちこめた。軍長の怒声は乱れを煽るばかりだった。二千五百の兵士が十一頭の猪に包囲されている。猪十八頭で崩れる兵団など何の役にたつのだ。
    わが父ビルドゥは言った。お前はもつ。高みにある隼の眼、巣に帰る蜜蜂の眼を。
    俺は轍にはまった戦車の車輪、血濡れた大牙を見た。そして俺は長衣を脱ぎ捨てた。
    わが父ビルドゥは言った。お前はもつ。北の天を走る流れ星の脚、七番目の月、聖なる丘の月の草原を駆けるガゼルの脚を。
    俺は斜面を駆け下りた。つい十日前までは白や青や黄や紅色の小さな花でいっぱいだった斜面はことごとく枯れ草になっている。俺は枯れ草に覆われた斜面を駆け下りた。
    わが父ビルドゥは言った。お前はもつ。暗夜に轟く雷鳴の声を、あめんどうの花を啄ばんで鳴く小鳥の声を。
    俺はこめかみが割れるほどの声を発した。犠牲者を突き倒さんとする牙をこちらに向けさせるため声を発した。猪の濁った片目が俺を捕らえた。憤怒も憎しみもない目だ。
    わが父ビルドゥは言った。お前はもたない。獅子の額を貫く槍を投ずる肩を、城壁を抜かんとする敵兵を追い落とす腕を。
    俺はもたない。重い武器を揮う軍神の肩と腕を。槍も剣も楯ももたない俺は十一頭の猪の二十一の目の中へ走りこんだ。
    それゆえ、われはお前に授けようとわが父ビルドゥは言った。ヒッタイトの鋼を。
    俺はもつ、目と脚と声と葦筆と見紛うヒッタイトの鋼の武器を。
    背に浅く刺さった槍を揺らせて地を掻いている猪の鼻先で俺は横に跳び、そいつの右側に従者のように並び立っていた大猪の首の下に滑り入った。ヒッタイトの鋼をふくら脛の鞘から抜き、俺は猪の喉に鋼を突き立て引き抜き、巨体が崩折れる前に腹の下から身を回転させ、次の一頭の両足の間に潜り込んで身をずり上げ首の下を刺した。抜け出る前に蹄が地を滑るのが目に入った。前脚の剛毛の一本一本がはっきり見えた。腹の沈むのが早く、下から抜けきる前に俺は踝を挟まれてしまった。
    息の抜けた悲鳴ともつかない掛け声を上げながら兵たちが倒れた猪の腹に槍の穂先を向けてきた。歯の根の合わぬ兵たちに土埃にまみれた俺と黒灰色の猪とは見分けがつかないだろう。俺は味方の弱兵の槍を浴びるのだ。黒い水に全身が浸されたような大きすぎる後悔の思いに声も出なかった。こんなにも無様な死を自ら招いてしまった。この時に呑みこんだ無念の思いと恥ずかしさは後になって何倍もの強さで俺を締め上げることになった。
    鼻先に真っ赤に融けた光が走り、間近に雷が落ちたような感じがした。
    「少年、名は」俺は呆然としたままその声を聞いた。戦車から俺を見下ろしている救い主の顔は背にした陽光で赤黒く翳っていた。雷鳴のように聞こえたのは、男が振るった鞭だったと後で知った。男は戦車を乗り入れ俺と猪を刺そうとしていた槍をその鞭で叩き落としたのだった。そうする前に男が半弓から射た矢はことごとく三頭の猪の額に刺さっていたという。
    「ナブ神の僕、ディリムと申します」喉が干上がっていて嗄れた声しか出なかった。「あなた様のお力添えなくば、私はこの場で果てておりました」
    「見事な書記振りではないか。お前の筆の刻みは余人の及ぶところではない。お前は一つの神に仕え、二つ、いやそれ以上かもしれぬが、多くの神々に護られているらしい」男の話し方は異国人のようだった。被り物も胸甲も見たことがないものだ。
    「あなた様も私にとってその神々のお一人でございます」
    「馬鹿なことを申すな。おそらくふだんのお前であればそんなことは言わぬであろう。わが国ではお前のような若者を徒に死なせるようなことはせぬ。お前とはまた会うことになろう」
    猪の腹に挟まれている足を引くと、力を込めるまでもなく抜くことができた。俺はまったくもって我を忘れていたわけだ。俺は戦車の車輪の端に這いより「お言葉、染み入ります。お会いできる日を」と頭を垂れた。
    異国の男は頭上で鞭を振るうと御者の肩を叩き、戦車を発進させた。

    (つづく)

  • 細谷 勇作 (文筆家)「思い出された忘却の丘で」

    『オデュッセイア』の書き出しを、覚えているだろうか。「ムーサよ、わたくしにかの男の物語をして下され……」この語り口は思いのほか鋭くて、「むかしむかし」というあいまいな説話的時空を超え、それは特定の過去を、ある時点において確かにありえた現実を呼び出すことに成功する。『源氏物語』の「いづれの御時にか……」と同じ構造、同じ強度である。そして明らかにされた過去において、フィクションは裏返しの現実を獲得し、散文的な調和をそこに発見する。具体的な条件というのは、もはや疑う余地がない。それは書くこと、物語ることの必然を、ぼくたちに知らせる。ジョルジュ・ペレックが言っていた、「ぼくは書く、なぜならぼくたちは一緒に生きたのだから。」(『Wあるいは子供のころの思い出』)ところで、『オデュッセイア』の冒頭において、物語を要求されるムーサとは、すなわちミューズであり、美の神であり、詩神である。彼女たちの父はゼウスだ。では、母親はといえば、それは記憶の神、ムネモシュネーであった。このことは、つねに思い出されなければならない。記憶。その直系の血縁者としての詩や美意識。忘れることと回想にふけること。物語ること。

    さて、ぼくはいま、チェーザレ・パヴェーゼのことを言おうとしている。彼が夢想した文学空間には、すでに過ぎ去った時間、忘却の海に沈みつつある追憶に対する、痛苦にも似た憧憬が、まるで通奏低音のように響き渡っている。『丘の中の家』『月と篝火』あるいは『孤独な女たちと』……それらすべてがあの印象的な小品集、『レウコーとの対話』へと帰結する。焔を失なったメレアグロスも、白い女神レウコテアーも、すべてがパヴェーゼ文学の原因であり、また結果である。パヴェーゼにとって、物語とは、もはや思い出しえぬ事柄を思い出すためにこそ、連綿と書き紡がれてゆくものであったらしい。それゆえ物語はつねに事後の世界から、ムネモシュネーの手のひらの上の世界からはじまる。女たちの去った空虚に、消えた篝火の丘に、物語がある。ただ『美しい夏』だけが、喪失の、その決定的な瞬間を、かろうじて捕捉するが、しかしそれさえもやがては神話に回収されてゆく、あとには声の嗄れたアメーリアだけが残り、燃えるジーニアはもはや「美しい夏」のなかにしか存在しない。あるいは夏が美しいのはそれゆえなのかもしれない。

    さらに言えば、パヴェーゼにとって、詩は目的ではなく、手段であった。それゆえポエジーとはスタイルよりもむしろ態度の問題であり、それは容易に散文のなかにまで浸透する。1935年10月28日、彼は自身のノートに書きつけた。「あるうすのろが、海についてこう言うときに、ついに詩は開始する—-「まるで油のようだ!」」(Il mestiere di vivere: Diario 1935-1950, Einaudi, 1962)あるいは1944年6月13日、ルソー『エミール』のなかの「習慣は想像力の息の根を止める」という記述を呼び出し、それを否定しながら、こう言った。

    ……しかしながら、生の事物から遠く隔たったところに生まれた追憶は、新たな思念の対象となって、ぼくたちのもとに帰ってくるであろう。それは習慣ではない。どこかしら壊れたものであるが、それがかえってぼくたちの想像力を煽り立てる。なぜならば、思い出される事物というのは、奇妙なことに、いつも新しく、いまだぼくたち自身の所有に委ねられているのだから。(同上)

    こうして、すでに背後に振り返るのみとなった日々は、亀裂やひび割れの目立つ残骸となりながらも、想像力によって、詩によって、ふたたび人びとの手もとに取り返されることとなる。だから、「故郷は要るのだ、たとえ立ち去る喜びのためだけにせよ」(『月と篝火』)。この点において、パヴェーゼの思考は、少しだけベルグソンのそれに似る。言語が過去をかろうじて繋ぎ止める、すべての人びとがいまこの瞬間に生きつつある現在に。そして忘却の起点として還元された過去は砂糖水よりずっと甘い。

    もうひとつ、パヴェーゼ文学に踏み入ろうとするならば、戦争について、深く考えなければならないであろう。戦争とはすなわち攻撃であり、死者であり、取り残された生者たちである。そして実際にはそのどれにも当てはまらない。『丘の中の家』において、名も知らぬ人びとによって流された夥しい血を目の前にしながら、コッラードの舌を借りてパヴェーゼは言う。「すべての戦争は、みな内戦なのだ。」ここにもぼくはひとつのパヴェーゼ文学の極点を見る。この場合の戦争とは、必ずしも実際的な戦争であるとは限らない。もしも誤解を恐れずにあえて言うならば、それはすべての闘争する精神のメタファーである。「故郷」という概念が個にして全を兼ねることは、批評的短篇「葡萄畑」のなかですっかり明らかにされている。それは「さほど特異なものではなく、むしろ共通な名称の、普遍的なもの、である」ために、「その原初の意味合いからは遠ざかって」、象徴へと知らぬ間に変容を遂げる。個々によって思い出されるものは、どれもみなたったひとつの故郷のためのヴァリアントである—-同じようにして、戦争もまた、大地に染みこんでゆくそれぞれの血の、その普遍の赤さ、古さによって、唯一的な戦争のイメージへと収斂する。

    いつかはやって来た、何かに触れるために、自分の存在を知らせるために、女を絞め殺し、眠っているまに銃を発射し、スパナで頭を打ち砕く日が。(『月と篝火』)

    この強い言葉は、人びとに戦争を促す。それは他人の血で身を洗うような戦争では、けっしてない。スパナはたしかに握られるべきなのだ、ただしおのれの頭蓋に向けて振り下ろすために。くり返すが、「すべての戦争は、みな内戦なのだ。」こうして、戦争が共同体と個人のあいだで揺らぎ、閉じられた現在の内部において循環する。たどり着くべき故郷は、数え切れぬほどの戦争を越えた先にある。そこで静寂のうちに安ろうためには、いくら血があっても足りない。みなが志半ばで斃れる、そしてまた別の男たちの血が、屍者の沈黙を新たな血で満たしてゆく。パヴェーゼはおそらくこの瞬間を渇望していた。血が大地の上で混ざり合い、ひとつに溶け合って織物の様相をなすときを。忘却のしがらみが、永い闘争の末に、ようやくほぐれて無垢を取り戻す、まさにその瞬間を――。

    つねに何かを忘れ、取り落とし、見失ない続ける定めにあるぼくたちにとって—-あるいは、少なくともぼくには—-パヴェーゼの文学はひとつの啓示めいた響きを持つ。宿命は、それに服従するためにあるのではない。抗うからこそ、それは宿命として、初めてみなに認識されるのではなかったか。そして、いずれにせよ失ない続けるのであれば、ぼくはあえて抵抗を選択する。ここに現在のぼくの最大の関心事がある。パヴェーゼとは音叉だ。彼のテクストは、孤独な個人を越えて全体に響き渡り、「かの男の物語をして下され……」という願いを忘却のうちに呼び出す。そう、たとえば、プリーモ・レーヴィを思い出してもいいかもしれない。彼が自らの著書に掲げたあのフレーズ、ゲダーレが壊れかけのヴァイオリンの調べに乗せて歌った、あのあまりにも印象的な言葉までもが、ぼくにとっては、パヴェーゼという希有な知性に呼応する谺のように聞こえるからふしぎだ—- Se non ora, quando ? 「いまでなければ、いつ?」

    *本文中のパヴェーゼ作品からの引用は、日記を除き、すべて河島英昭訳『パヴェーゼ文学集成』(岩波書店、2008〜2010)によった。

  • 永井 友美恵 (テキスタイル作家)「ライラックの咲く頃」

    目の前で小さなコマが回っている。ドイツの友人エリックが持ってきてくれたものだ。知り合いの木工職人が作ったという直径2センチにも満たないそのコマは、一本の木から削りだされ、木目の半分が濃くなって美しい模様になっている。
    「ライラックの木で作ったんだ。」とエリックが言った。
    そのとたん、回り続けるコマから香りの記憶が漂い出てきた。
    場所は札幌、長い冬が終わっていっせいに花々が咲きみだれる5月、フィンランド人の園長ピーライネン先生に見守られて、5歳の私が幼稚園の園庭でブランコをこいでいる。ブランコの後ろには、枝の先に淡い赤紫色の大きな花房をいくつも付けたライラックの木があって、こぐ度に後ろから甘い香りが近づいては遠ざかった。もっと香りに近づきたくて白いタイツをはいた足に力を込めて思い切り、ブランコをこぐ。ほとんど背中が葉や花房に付く程なのに、背を向けているので香りだけが背後からやってきて、イメージの中のライラックは輝きを増していった。
    香りの記憶、かたちはないのに、確かに存在するもの。それは案外かたちあるものより深く心に刻まれているのかもしれない。それはふいに現れ、そのときの情景をあざやかに再現してくれる。
    数年前に見た「ラフマニノフ ある愛の調べ」の冒頭で、両側にライラックの生い茂る小径を、男の子がかけ抜けていくシーンがあった。香りの存在を確かめるように両手をひろげて花房に触れながらいくので、その度に左から右から花房がゆれて男の子に降りかかる。思わず自分の幼い日と重なって私は深く息を吸い込んだ。この映画でライラックは最後まで重要なキーワードになっている。度重なる試練に、ラフマニノフもまたこの香りに癒されたのだ。度々コンサートホールに届けられるライラックの花束、誰が送ってくるのかも分からないまま、季節外れの時にさえ届く花束の訳は最後に明かされる。
    今年のecritの年賀状に添えられた詩にもライラックの一節があった。

    あなたはやってくる
    露に輝くライラックの花群をぬけて
    鏡の向こうから
    後日、ecritの落合佐喜世さんに詩の題名と作者を教えてもらった。タイトルは「 初めの頃の逢瀬」 作者はやはりロシア出身の詩人アルセーニー・タルコフスキーで、映画監督アンドレイ・タルコフスキーの父であることもそのとき知った。今ecritが詩画集を計画しているらしい。
    小さなコマはまだなめらかに回っている。私はそっと顔を近づけてみる、記憶の中のライラックの香りをかぐために………

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    (左)織/永井友美恵・木彫/久住朋子
    書見台・掛布 “音楽と祈り” ギャラリーおかりや (2009年)
    (右)織/永井友美恵
    マフラー(部分)グレゴリオ聖歌 ”Graduale”

  • 山下 賢二 (ガケ書房店主)「よるべない話」

    たまに休憩時間に車で山道を行き、途中にある天然温泉の駐車場でぼぉとする。 そこには隠れ駐車場があって、正規の場所より奥まったところに車道とは別の山道 が奥へ通じており、車1台分だけ入っていけるスペースがある。
    そこに侵入して読書しながら寝てしまったりする。天気のいい日は車から降りて、砂 利道を踏み締め人気のないけもの道を少し恐々としながら奥へ進むこともある。本当 に人のこない道で自分の身に何かあっても、また何を発見しても不思議ではない気 分にさえなる。

    少し暖かくなってきた先日、その<男の隠れ家>で2人連れの女の人を見た。

    年の頃は、20代半ばと30代くらい。若い方は、芸大生のようで奇抜なファッションに くわえ煙草。もう一人は、品のよい顔立ちと清楚な中にも自己主張のある服装であった。 当然、僕は気になった。ずんずん奥へと入っていく2人が少し心配なのと、単純に興味 本位と。ある一定の距離をあけて、散歩するふりをしながら追跡する僕がいた。
    山道はひたすらゆるい坂で、たまに水が地面から湧き出ていたりする。動物の糞が してあったり、工事車両が通ったようなタイヤ痕も見てとれる。女たちは、興味いっぱい の様子で上やら下やらジロジロ眺めては、顔を見合わせたりしている。どうやら僕のこと は気づいているのかもしれないが、相手にしていないようであった。道は、太くなったり 細くなったり曲がったりしながら続いていて、道の脇の斜面はどんどん急勾配となって いき、いつのまにか少し流れの速い小さな川が現れはじめていた。
    年上の女がしゃがみこみ何かをし始める。2人まで距離があるので何をしているのかよ くわからない。一緒に立ち止まるのも不自然なので少しずつ距離を近づけながら横を通 り過ぎた。女たちは僕が通り過ぎるのをじっと待つ雰囲気で背中ごしに様子をうかがって いる。とうとう何をしているのかは見えなかった。
    目標を失った僕は何度となく振り返り、戻ろうか進もうか思案しながら奥へ歩いていった。 その時、薄暗い雑木林の間から雨が少しずつ降ってきた。傘など用意してこなかった。仕 方がないので急いで道を引き返し始めた。女たちはどうしているのだろう? 彼女たちを 見失った曲がり角を曲がったところで僕は立ち止まった。彼女たちは山側の葉の多い木 の下で雨宿りをしていた。若い女は、また煙草を咥えていた。なんとなく無視していくのも 気が進まなかったので、「大丈夫ですか」と声をかけた。年上の女は、心配そうに「そちら こそ大丈夫ですか?」と問い返してきた。雨が急に激しくなってきて、思わず僕も木の下に。
    ここで何をしているのかとか、よく来るのかとか、ありがちな会話を消化しはじめる僕達。 彼女らは、<テグネ・ス>という音楽ユニットらしくフィールドレコーディング、つまり自然の 中での録音場所を探しているのだという。僕がガケ書房という本屋をやっているのだと話す と、名前は聞いたことがあるが行ったことがないと言った。雨は一向に弱まる気配がなく、僕 たちは黙ったりしていた。携帯電話が圏外になっていることに気づくと急に不安な気持ちが もたげてきた。次第に陽が落ちてきて、辺りが少しずつ視界が悪くなってきていることに僕た ちは恐怖を感じ始めていた。車のあるところまで30分は歩かないといけない。この雨ではさ すがにツライ。地面もタイヤ痕に沿って雨がドバドバと流れ出して、斜面の下の小さかった はずの川も勢いを増し始めている。傘代わりをしてくれていた葉も雨の勢いに負けはじめて 僕たちは濡れてきていた。
    若い方の女が「寒い寒い」と言い出したので、四の五の言わず3人でくっつき身体を寄せ 合った。女性特有の髪の匂いが立ちこめた。こんなはずではなかったと思うと同時に、この 異世界に入り込んだような状況をどこか楽しむ自分もいた。視界はどんどん悪くなり、僕達 の恐怖は最高潮に達していた。
    夜を明かせるだけの場所ではない。ともかく手探りで移動するしかない。という結論を出し、 3人で大雨の中、下山しはじめた。髪も服も靴もビショ濡れ。記憶と感覚的目測を頼り に歩く。どこまでもどこまでも暗闇が続くかのような道はそうそう終わることはなかった。何度 か休憩しながら僕達は声をかけあった。鶴見俊輔が提唱していた<神話的時間>の中に 今まさに自分はいるのではないかと思えてきた。現代社会の近代的時間からはずれた流れ の中で、いま自分はどこにいるのか、隣にいる人は僕にとって誰なのか、社会通念の関係性 全てが取り払われたような時間。ただ一つの共通の目的だけが銘銘にゆるぎなくあるだけ。
    下のほうから道路の明かりが見えはじめてきた時、僕は(大袈裟でもなんでもなく)文明の 素晴らしさを賛美したくなるような気持ちに包まれていた。足取りを速めて、僕たちは明かり へ向かった。懐かしい気持ちさえ芽生える愛車に彼女たちをとりあえず乗せ、シートにぐっ たりした。そして、行ったことがないというガケ書房まで車を走らせた。

    その日は翌朝まで雨は激しいままだった。

  • 蜂飼 耳 (詩人)「不機嫌な巫女」

    このあいだ出雲へ行ったときのことだ。小雨はあがって、曇り空が鈍く光る。内陸にある古い社をおとずれた。古代の文献にすでにその名が記されている社だ。木の根と苔によって、ほろほろとかたちを崩された石段を、滑らないようにのぼっていくと、すっきりと美しい社の屋根が目のなかへ、すがたを現した。
    がらんとして、だれもいない。祭りかなにか特別なときをのぞいては、来る人は稀なのかもしれない。小さな集落に鎮座する、いかめしくもこぢんまりとした社。太陽の鏡は雲の底へいっそう沈んで、杉や檜の緑はますます濃くなっていく。
    社務所の硝子戸のなかで、人影がちらりと動いた。ここには、あの人と自分しかいない。この世にふたりだけ取り残されたかのような心ぼそさがにわかに湧いて、社務所のほうへ近づいた。すいません。声をかける。二度呼ぶと、うつむいていた顔がゆっくりと、持ち上げられた。若い巫女さんだ。化粧をしていない顔、ぼさぼさの眉毛。短く切りそろえられた爪が指先にならぶ右手を伸ばして、巫女さんは硝子戸を開ける。
    すいません、こちらの縁起みたいなものが、もしあれば、いただけないでしょうか。お願いすると、巫女さんは面倒くさそうな顔をした。そのとき、気がついた。巫女さんの左手には、青竹の細いのが握られている。手もとには、置かれたばかりの小刀が刃先を輝かせていた。作業中だったのだ。中断させてしまって申し訳ない、と思っていると、ぺらりと一枚、渡された。巫女さんの着物と同じくらい白い紙。
    縁起、という文字が目に飛びこんだ。受け取ると、硝子戸はぴたりと閉じられた。巫女さんはすぐに小刀を握り、ふたたび青竹に向かった。お礼を伝えても、反応はなく、もう顔を上げることもなかった。そんなに急ぎの仕事なのだろうか、それは、と削られていく青竹の青さを見つめた。急に声をかけられて作業の手をとめなければならなかったことが、不愉快だったのだろうか。あたまを下げても、もちろん、気づかない。巫女さんは手のなかの青竹に集中していた。
    出雲からもどり、時間が経つにつれて、巫女さんを懐かしく思うようになった。不機嫌。無愛想。そんな言葉に置き換えてしまうことは、できそうでできない、慎ましく、奥まった空気。うつむく巫女さんを包んでいたものは、近づくものをやんわりと遠ざけようとする空気だった。愛想などは不要なのだ。なにしろ、訪れる人も少ない、古い社なのだから。
    都心の満員電車に乗って、吊り革につかまり、他人とからだを密着させたまま揺られているときなど、ふと思い出す。今日もあの巫女さんは、だれも来ない社の社務所に座っているのだろうか。ぽつんと座りこんで、青竹を削ったり、掃除をしたりしているのだろうかと。社の屋根よりも高く伸び上がる杉や檜。その緑の枝が、ごとん、ごとんと、風に鳴っていた。曇天へ染みていったその音を、電車の揺れる音の底に探す。見つかりそうで、見つからない。

  • 落合 とき代「かぐのこのみ 春」

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  • 竹之内 康夫 「消えた防空壕」

    「戦争」を選んだ、とのタイトルが少し思わせぶりで、出版社が売らんかなとしたものか、と勘ぐったりもして、なんとなく逆なでされるような気持ちが先立った。なぜなら、戦争を「選んだ」ではなく「選ばさせられた」、という人が普通であり、大多数であったのが近現代の総力戦からくる戦争の性格だ、と思っていたから。で、10日ほど前にようやく気持ちを落ち着けてから、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を手に取った。
    読み終わってほっとした。単に教科書を読むようでなく、先生(加藤陽子・東京大学文学部教授)が日清、日露戦争から太平洋戦争までを細心かつ綿密に再構成した近現代史を教えている。検証された事実と的確な状況把握のもとに、話す言葉はやさしくも明確で無駄口がいっさいない。学ぶ生徒同様に、身近だからこそやっかいな近現代史をあらためて納得しながら勉強できた。ただ、唐突に思うかもしれないのだが、この近現代史があみだくじに見えて、横に折れるように引かれた線のままに右へ行ったり、左に進んだり、それでもゴールは○でも×でもない同じ結果の同じ地平にわけもなく立ち尽くしている、とのわだかまりは解消しきれない。「選んだ」のか、「選ばさせられた」か、つまり同書にあるように「戦争責任をめぐる問題は十分議論されてこなかった」からによる。
    そもそも戦争を知らない世代、くわえて戦争の知識に疎い。戦争か、平和か、と問われることもなく過ごした果ての平和ぼけ、といわれても致し方ない。『戦争論』(多木浩二著)も、このコラムvol.17で成相佳南さんが『絆』の関連作品として掲出していたことで知ったくらい。それでも、競争や闘争、そして闘争心こそは、人類が継承し続けているものであり、平和への関心とは裏腹に本能とし発揮されるものにちがいない。
    アリストテレスに従えば、人間社会は闘技場を主宰する者、闘技する者、見物する観客によって構成される、であったか。いずれにしても、その闘技場で圧倒的に多数を占めるのは、闘技に興奮し、満足する観客。であるからか、娯楽版戦争映画を選んで映画館に行く機会も多い。古くは、戦後10年を経過したばかりの1957年(昭和32年)、映画館の中が異様な熱気とともに大人たちがあることを感じた『明治天皇と日露大戦争』から、考古学とロマンと野心を壮観な場面に心をときめかせてくれた『アラビアのロレンス』、苛立ちと恐怖の罠にはまった閉塞感とナパーム弾に焼きつくされて空しく広がる解放感で終わった『プラトーン』をはじめとするベトナム戦争ものなど、主にアメリカ製の戦争映画をたくさん観てきた。「西部戦線異状なし」や「夜と霧」などが戦争映画のほんとうの意味を表現している、というのはわかる。しかし、こどものころに大好きだったチャンバラ映画や西部劇と同様に、ヒーローとアンチヒーローが対決する活劇のような戦争映画が嫌いではない。
    幸いにも戦争は全く経験していない。しかし、経験していない記憶はいくつかある。そのひとつ、子ども心に幽閉される怖さを感じた防空壕。目下、平成本堂大営繕の最中にある浅草寺裏手の広場に口を開けたままの防空壕があった。言問橋を渡ってすぐ、隅田公園に向かって下る階段の左手にも分厚くコンクリートで覆った饅頭のような防空壕があった。今は、いずれも平らに整地され、かつての異物は何事もなかったように跡形もなく消えている。東の空を見上げれば、高さ世界一の電波塔になる東京スカイツリーが一本の蝋燭のように立っていた。
    3月10日、東京新聞の朝刊1面に掲載された写真が二つの防空壕の記憶を呼び覚まし、(実際に経験した人たちの記憶とは比較にもならないが)経験していない記憶へと重くのしかかってくる。『フェリーニのローマ』で古代ローマの屋敷跡のフレスコ画が外気にふれて消え行くさまは、そこに歴史のせつない宿命を感じるとともに、鮮明に描かれた男女像に適切に問いかけること、されば歴史に言い寄ることもできるはず、とあらためて実感させてくれる。歴史をつかさどるクリオは内気で控えめな女神であるそうだが、たまに地上に降りてきて顔を見せてくれることもある。

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    1945年(昭和20年)4月2日、午後1時16分、高度1万メートルからの写真は、焼夷弾で焼け野が原となった東京下町の一部。中央に緩やかに蛇行する隅田川、下に両国駅、旧安田庭園、慰霊堂あたりの黒い影、写真の左上に浅草寺の伝法院、奥山、瓢箪池あたりが黒く、そのほかの焼き尽くされた町と行きかう人のいない道路は表皮をはがしたように白い。仲見世の細い二本線の突き当たりが浅草寺、そして浅草寺裏手の言問通りを隅田川に向かい、言問橋を渡ると向島で隅田公園、牛島神社と周辺が黒く映っている。そこには浅草寺裏と隅田公園の防空壕がある。
    3月10日の大空襲において死亡または行方不明とされた人々は、8万人とも10万人ともいわれる。

    『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』から、私は水野廣徳(ひろのり)という名を知った。戦後の進むべき道を予見するかのように昭和のはじめに平和思想を説いた海軍の軍人で、その「独力戦争をなすの資格に欠ける」とする前提条件が今あることを想起させてくれる。私にはそれはまた、戦争を選ぶか選ばないかの二者択一ではない、戦争をしないために戦争を選ばないことの基本をあらためて問いかけているように思える。

  • 林崎 徹「ウル ナナム 2」

    (不定期連載)

    2
    風がいきなり立ち上がり、傍らの無花果の枝を叩いた。気づくと目の前にグラの姿があった。俺の影から湧きでたように思えた。グラの顔は頬の内に星を入れているみたいに小さな光を発していた。
    「今しがたお前のお婆様のことを考えていた」俺は無花果の幹に背をもたせた。
    グラは抱えていた小鉢を差し出した。温めた山羊の乳だった。身体が冷え切っていたのがわかった。垂らしてある蜂蜜もありがたかった。俺は大きく二口飲み、鉢をグラの口元にもっていった。一度首を振ったが、俺がさらに勧めると小さく二口飲んだ。
    「グラが乳を搾るのか」
    「山羊は好きじゃない。臭くて、ずるくて、いじきたない」
    「山羊の乳はうまい。酪乳もな。お婆様の体の具合が悪くなければ少し話をさせてもらいたいと思っている」
    「婆様はディリムを気に入っている。ディリムの会いたい時が会える時だ」グラは俺に横顔を向けたまま言った。
    俺はラズリ婆様と言葉を交わしたことはほとんどない。会う時はいつも覚師が一緒で、俺は二人の話を聞いているだけだ。たしかに婆様の眼差しは温かかった。
    「婆様は人相見をする。ディリムがここに来たのが十三歳、そして長い旅を終えたばかりだった。それはあしたのすべてが蕾のように人の顔に宿る時。大事なのはディリムが顕れたのがその時だったということよ」にわかに大人びたグラの口調が託宣のように聞こえた。
    グラは向き直り俺の手に小鉢を戻した。ラズリ婆様の長子、鍛冶職人エピヌーの三女グラは俺より二歳と七ヶ月若い。覚師と旅立つことになった日の姉のことを俺は思い出した。「もうあんたの姉さんではなくなるのよ」と姉は壁を見据えたまま言った。
    俺は空を見上げた。星見の力は姉メレルがはるかに優っていた。俺たちはよく夜空に星を三つ選び、その中の星を数えあった。ある夜俺が七十八数えた時、メレルは百十一だった。
    「ディリムはバビロンへ行くのでしょう。どうして新年祭に大神官ではなくハシース・シン様が呼ばれるの。それに系図のある神官でもないディリムまで」グラの声は今また幼かった。
    グラと同じように訝る俺に覚師は「王の名はナブ神に守られているからな」とはぐらかすだけだった。バビロンの解放者ナボポラッサル王の名は「ナブ神は子を守る」という意味だ。
    「俺は供をして船に乗れとだけ言われている。グラはいつでもこんなに早く起きているのか」
    「ディリムはいつも夜が明けてから起きるね。今日はどうしたの」
    ハシース・シンの学び舎に入って十三の月が巡る間、たしかに俺は夜明け前に起きだしたことがなかった。
    「夢をみた」と俺は空を見上げたまま言った。
    「ディリムはふだん夢をみないのか」
    「毎晩みている」
    「今日は特別な夢だったということだね。話さなくていい。夢占師だけよ、人の夢を聞けるのは」
    「占は商いのようなものだ」とわが父は言った。「問う者と答える者、問うた者にとって答えに大いなる価値があると思えたら大いなる代価を払う。占に肩入れするわけだ。そしてことが動く。占は梃子の石だ。商いと違うのは不本意な答えも買わねばならんということだ。いずれにせよ高い買物になる」
    「わたしは夜明けが好きだから」
    「俺は夕暮れが好きだ。西の空がクロカスの花の色に変わっていくのを眺めていると、心が透き通ってくる」
    「夕暮れは蝙蝠を連れてくる。私は夜明けが好き」
    「グラの気に入りの場所を教えてくれ。そこで夜明けを見ることにしよう。冷えるぞ、外套を着てこい」  グラが胸を弾ませるのがわかった。俺の手から小鉢を取ると、荒い布地の長衣をたくしあげてラズリ婆様の住まいへ走った。そしてすぐに上掛けを抱えて戻ってきたグラは、もどかしそうに首を振ると門の外へと足を早めた。急いているのだろう、グラは無言だった。文書倉を擁するニサバの丘は四囲ともゆるやかな勾配をなしている。北隣の丘は倍以上の高さをもった円錐台だ。俺たちは水路に沿って五百歩ほど北へ歩いた。二つの丘の間を切る隘路に入ると、城壁の下を歩いているようだ。暗いうちに通るのは初めてのことだった。北の丘の上り口に入るころには薄まった空に星が溶け始めた。
    グラの足取りはまるで岩兎だ。踏み固められた道だったが、急な足元は雨の名残で滑りやすかった。登りきった丘の上には酒船が据え置かれていた。いかなる請願のためにこれほど巨大な石塊が運び上げられたのだろう。傍らに、かつて雷に打たれたのか焦げ跡のついたアカシアらしい木が一本あった。使われなくなって長い時を経ているはずの酒船から、ほのかに葡萄の匂いがした。
    迫り上がった東の岩棚からグラが俺を呼んだ。岩棚の下は小さな窪地で、グラが上掛けをひろげ、くるんでいた皮袋とパン、干し杏と干し無花果を並べていた。
    日輪を迎えるのにこの上ない場所だ。俺たちは天空を行く船の舳先にいるのだ。
    すべてが目覚めようとしている。大地と川と空の高みにあるなべての生き物たちの身じろぎが伝わってくる。草が露を飲み、ニゴイが胸びれを揺らし、鳥が羽を擦り合わせる。荘厳なざわめきだ。やがて火打石が鳴り、竃に火が焚かれるだろう。ひき潰した麦粉が焼かれ、羊たちは牧夫を待ち焦がれる。ゆるやかに蛇行する大河の向こうの城壁は黒い塊で、消え行く星の光を受けて鈍く揺れているのは常夜番の槍の穂先なのだろう。
    鑿の一打ちのように地の彼方に赤い刻点が顕れ、時をおかず金色の火箭が地平を奔った。つかの間すべての音が途絶えたように思えた。
    俺たちの見知らぬ土地を夜通し巡歴した太陽の神シャマシュはいま眠りにつこうとしている。これからとてつもなく深い灼熱の夢を見るのだ。
    俺は皮袋の葡萄酒を垂らし、パンをちぎり、干し杏と干し無花果を空へ抛った。そして曙光に呼びかけた。
    「ルー、ルー、ルー。われらが古都を照らす光よ。御身がわが双眸に刻す白き言葉をわれ見ることあたわず。されど御身を名づけさせ給え。御身が齎す今日一日の、日々の、そして永久の神秘を称えまつらん。
    御身のまなざしの下にわれらは集い、商い、涙し、食らう。御身の名はもの言わぬ瞳。
    御身の吐息で大地は乾く。汝の暑熱が育むもの、それは葡萄樹。御身の名は生命の木。
    御身の腕で百千の煉瓦が固まる。御身の名は不朽の館。
    御身の歌声で牛と驢馬と羊たち、そして馬と駱駝たちが番う。御身の名は豊饒のシンバル。
    御身の跳躍は花々を目覚めさせる。御身の名は第二の月の祝祭。
    俺ははじめにシュメールの言葉で唱え、もう一度同じことをアッカドの言葉で捧げた。俺たちが覚師ハシース・シンに言われているのがこのことだ。
    「シュメールの言葉なくしてわれらアッカドの言葉はない。心して喪われた先人の言葉を残すのだ。粘土板の上にだけへばり付いていてはならぬ。写しに写し、ひたすら筆写することで字を学ぶ書記たちは言葉から離れてゆく。城壁に釘付けされる王族の屍のように文字は干からび亡霊となり風に運び去られる。謳い続けよ。唱え続けよ」
    俺はもう一度供物を捧げ、新しい名を捧げた。
    「もの言わぬ瞳のために。生命の木のために。不朽の館のために。豊饒のシンバルのために。第二の月の祝祭のために」
    「ディリム」朝日に顔を向けたままグラが言った。「あなたの本当の名は」
    「それこそ」と俺は答えた。「ラズリ婆様に伺いたいことだ」

    (つづく)

  • 林崎 徹「ウル ナナム 1」

    (不定期連載)

    1

    中島敦に「文字禍」と題する、紀元前のメソポタミア地方、アッシリアを舞台にした玄妙な短編がある。私が書いていこうとしている『ウル ナナム』は、このアッシリアを滅ぼしたバビロニア王ナボポラッサルとその息子ネブガドネザルの治世、紀元前7世紀頃の話である。
    『ウル ナナム』とはメソポタミアのシュメール神話の一つ「エンリル神とニンリル神」の書き出しの言葉で、「都市があった」という意味だそうだ。都市の年代記とビルドゥンクスロマンを併せた物語をめざしたいと思っている。

    この文字は読めない。
    覚えているのはそう思ったことだけだ。その刻文を俺はたしかに見ていた。読み解こうとずいぶん長い間見つめていたはずだ。書き出しの楔はどちらを向いていたのか。夢は降り初めの雨粒のようにかき消えてしまった。そもそも楔文字だったのかも実のところはっきりしない。消えてしまったことで、謎をかけられているように思えてならなかった。もちろん、どんな夢も謎だとはいえるが。
    壁に穿たれた七つの小窓はまだ真黒だ。夜明けまで間がありそうだが、もう眠りは戻ってこないだろう。
    俺は闇に目をならしてから、荷担ぎの柳の枝で二回ずつサンダルを叩いた。このニサバの丘の館に入って二十日ばかり過ぎた日の朝、サンダルに潜んでいた蠍を踏み潰してからの習いだ。刺された痛みは蜂にやられたほどのものだったが、そのすぐ後から高熱に打ちのめされた。どこまでも堕ちていく夢を見続け、冥界に引き込まれるのだと俺は心底怯えてしまった。
    羊革の半外套を着て中庭に出てみると、四隅のなつめ椰子の根元は黒い陰の中にあった。明けの星イナンナはまだ姿をみせていない。二日前に終夜降りつづけた雨で大気は澄んでいた。雨とともに腸を揺さぶるほどの雷がしつこく吠えたけれど、水位標を脅かすほどの降りではなかった。
    粘土の書板に触れば消えた文字を呼び出せるかもしれないと思い、俺は母屋の裏の菜園を抜けて文書倉へ向かった。わが覚師ハシース・シンの館は書板を納める倉が人の住処よりはるかに大きい。壁も厚く床には焼き締めた煉瓦が敷かれている。石榴の種ひとつ落ちていないこの倉に鼠がはびこることはないけれど、長脚の蜘蛛がやたらに蠢いている。灯壷を掲げて文書倉に入ると、無数の長脚が陽炎のように揺らめき立ち、逃げ遅れた奴が掘り込まれた楔文字に足を取られたりする。奴らのえさはきっと灯りの油なのだ。夢の中でも刻文に追われ踏み迷っている俺は長脚蜘蛛そのものではないか。
    ニサバの丘にあった家々を破砕し火をかけ数多の品々を持ち去ったアッシリア兵たちは、叡智の神ナブ賛歌が刻まれた石柱を見落としていった。対岸のボルシッパの城市が築き直された後も丘に移り住む者はなく、語り起こす者もいなくなって久しいこの地はやがて毒蛇の住まう丘と呼び習わされ、食う草の乏しくなった山羊さえも近づこうとしなかったという。
    「自ら隠れたのだろうな」と覚師は言った。閃緑岩の石柱は堰きとめられた水路の中にあったのだ。「だれも妙だとは思わなかったのか。蛇穴の山からあれほどけたたましい蛙の鳴き声がするはずはなかろうに」覚師は酒器から泡立つ麦酒を地に振りまくと、葦筆の尻で巧みに蛇と蛙の絵を描いた。そして大げさな身振りで耳に手をあてた。外ではジャッカルもたじろぐほどの大音量で蛙が鳴いていた。
    真水の井戸も枯れてはいなかったのだ。ナブ神は自ら隠れ、時がくるまで丘にもまた偽りの呪いをかけたのかもしれない。
    打ち捨てられたニサバの丘にやってきたのは覚師と五人の男たちと三頭の牝牛と二頭の牡牛、騾馬が四頭だった。彼らが到着した翌朝女が一人丘へやってきた。すでに寡婦となっていたラズリだった。覚師の一行が焚いた夜の火を見たからではなく、新月と満月になる日の朝、ラズリは欠かさず丘に来ていたのだ。二十一年前の新月となるその日、丘の上で声を発した者はいなかった。約束された儀式のように六人の男と一人の女は無言で出会い別れた。繋がれていない驢馬だけがラズリの腰に鼻面を寄せ、水路の縁に捧げ物をするのを見守っていた。
    翌日から六人の男たちは椰子の皮をはぎ綱に編み大きな籠をこしらえると、水路から賛歌の石柱を牡牛に曳かせ引っ張り上げた。満月を迎える日のことで、二度目となるラズリは連れてきた子羊を手際よく屠り肉を切り分けた。肉と椰子酒と乾葡萄をナブの言葉に捧げると、六人の男と一人の女は共に同じ物を食い飲んだ。
    先のボルシッパの総督は忘れられていた丘に文書倉を建造するというハシース・シンの願いをよしとし、煉瓦職人と二十本の杉材を供与した。覚師は倉を建てる四隅にナブ神の名を聖刻した釘を埋め、三月の間に城壁と見紛う部厚い壁を立ち上げた。大きさこそ大神官と二十七人の書記が居並ぶ市内の神殿図書館に劣るが、上の海の彼方あるいは東の峡谷を越えた化外の地から伝播したという文書はアッシリアのニネヴェが誇る考古文書館をも凌ぐという。
    五十の青銅の鋲を打ち込んだ文書倉の扉はいつも半開きになっている。ここは昼夜を問わず出入りが自由なのだ。そのため扉の前に鎮座する双面神像の口が油受けとなって一晩中火が点っている。大柱を曲がったところで俺は先客に気づいた。上床の石壁に油煙が泳いでいる。ナブの石柱を納めた祭壇のあたりだ。師は明後日まで城内におられる予定だから、学び舎の仲間なのだろう。俺は後ずさりし外へ出、腰丈ほどの裏塀に沿って歩いた。星が泡立ち大地はいっそう冷え込んできた。

    (つづく)

  • 金原 瑞人 (翻訳家・法政大学教授)「気になること、気にならないこと」

    翻訳をする際、どちらでもいいこと、というのがある。
    ① 「トムは言った」とか「ジェインは言った」とか原文には書いてあるんだけど、 それをそのまま日本語に訳すと、うざったいことが多い(英語の場合、男言葉、女言葉の差があまりないし、 終助詞なんてものはもともとないから、どうしてもそうなる)。
    そういう場合「トムは言った」とか「ジェインは言った」とかは削っちゃっていいのか。
    ② マイルやガロンやポンドはそのまま訳したほうがいいのか、それとも、 キロメートルやリットルやキログラムに直したほうがいいのか。
    ③ 英語では夫婦はおたがい相手を「ニック・メアリ」とか、名前で呼ぶけど、 日本では妻が夫を名前で呼ぶことはあまりないから、「あなた・メアリ」と訳したほうがいいのか、 それとも、英語圏ではこうなんだから、「ニック・メアリ」のままのほうがいいのか。
    とまあ、こんなのはどっちでもいいのだ。
    たとえば、①の場合、青山南さんは昔は削っていたけど、そのうち削らないことにしたとエッセイに 書いている。ときどき読者から、「トムは言った」という訳が抜けていますという投書がくるように なったからというのがその理由。ちなみに、金原はその手の言葉は徹底的に削る。削れるだけ削る。 そのほうが日本人には読みやすいし、そのぶんインクも紙も節約できるからだ。また、青山さんには 熱心なファンが多いけど、金原にはあまり多くないからでもある。
    たとえば、②の場合、金原はキロメートル、リットル、キログラムに直す。 基本的に読者を信用してないからだ。たとえば、学生に英文和訳をさせていて、 「あ、きみ、時速50マイルって訳したけど、それって何キロくらい?」とたずねて、いままでちゃんと 答えられたのはせいぜい20人に1人か、それ以下だった。普通の日本人は(法政の学生に「普通の日本人」を 代表させるのはちょっと違うかもしれないけど)、そんなこと知らないし、知らないまま海外の小説を 読んでいるのだ。なら、わかるように日本で使われている度量衡の単位に直してやるのが親切というものだ。 だいたい、アメリカはガソリンをガロンで売っている。「この車、1ガロンで50マイル走るんだよ」と いわれたところで、燃費がいいのか悪いのかさっぱりわからない。
    (ずいぶん昔の作家だけど、エリナ・ファージョンの『ムギと王さま』(石井桃子訳)という 短編集のなかに「十円ぶん」という作品がある。原題は A Penny Worth だったと思う。 いまなら、さすがに、この訳はなかったかもしれない)。
    たとえば、③の場合は、それこそ訳者によって様々で、金原の場合も読者が子どもの場合と大人の場合で 分けて考えることが多い。
    というわけで、まあ、どちらでもいいのだ。
    しかし、もう少しつっこんだところで、どちらでもいいことがある。
    たとえば’A neighbor’s brother, came visiting from Australia, loved Janet, and carried her back to Adelaide as his bride.’という場合、 訳に困るのが’brother’という言葉だ。「近所に住んでいる人の兄弟がオーストラリアからやってきて、 ジャネットを好きになって、アデレイドに連れ帰って結婚した」とすると、日本語としてとても変だ。
    まるで2人か3人がやってきたみたいに読める。もちろん、やってきたのは1人。
    日本の小説なら、きっと「お兄さんが」とか「弟が」と書いているところだろう。 あるいは、「兄か弟かはわからないが、そのどちらかがやってきて」という場合もあるかもしれない。
    つまり日本人は、「兄弟」であっても、年が上なのか下なのか気になってしまうのだ。
    一方、欧米では気にしない。「兄弟」なんだから、それさえわかればよくて、 年の上下なんてどうでもいいじゃん、というのがむこうの考え方、というか感性だ。その証拠に、 というわけでもないけど、兄も弟も、姉も妹も、みんなおたがいに名前で呼び合う。
    だから、小説なんかの場合、最後まで年の上下がわからないということもけっこうあったりする。
    まあ、年の差が2歳か3歳、いや、5、6歳くらいまでだったら、それもいいかと思うけど、 10歳離れていようが20歳離れていようが、どうでもいいらしい。30歳離れていても、 欧米では兄弟姉妹は名前で呼び合う。
    10年くらいまえ、コルビー ロドースキーの『ルーム・ルーム』という本を訳したとき、 ちょっと困ってしまった。主人公の女の子が、お母さんが死んで、その親友のところに引き取られる という話なんだけど、そこで母親代わりのおばさんのきょうだいが一同に集まるところがある。
    それもずいぶんたくさんいる。ところが、年齢がまったくわからないどころか、長男長女さえわからない。
    ちょっと訳しづらいので作者に「年齢順に並べてみてもらえませんか」とメールを送ったら、 「そんなこと考えてなかった」という返事。日本人としては、「おいおい!」という感じなのだが、 欧米の人にとってはどうでもいいことなのだ。
    ということは、さっきの’A neighbor’s brother’なんてのは、「近所に住んでいる人のお兄さん」 でもいいし「近所に住んでいる人の弟」でもいいのだ。
    兄弟姉妹であればそれでよくて、年齢差にはこだわらないのが欧米、そういっていいと思う。
    ただ、どちらでもいいものの、絵本なんかの場合は、どちらかに決めてしまわないと、 絵が描けないから、当然、どちらかに決めてしまう。それで不思議な思いをしたことがある。
    ドナ・ジョー・ナポリという作家の『逃れの森の魔女』という作品を訳していたときのことだ。
    これはグリムの「ヘンゼルとグレーテル」のパロディなんだけど、姉と弟という設定になっていたのだ。
    あれ、日本と逆じゃん、と思って作者に問い合わせたら、英米ではほとんどヘンゼルが弟として 描かれているとのことだった。そこで調べてみたら、その通りだった。まあ、たしかにこの話、 後半はグレーテルが活躍するし、ヘンゼルは案外と頼りにならない。
    ほかにも、ロベルト・インノチェンティが絵を描いた『くるみわり人形』を訳したときのことも 印象に残っている。ホフマンの作品では、主人公の女の子マリーとその兄が出てくるのに、 インノチェンティの絵はどうみても、姉と弟なのだ。そこで、彼が日本にきたときにたずねてみたら、 「いままで自分の読んできた本・絵本ではすべて、姉と弟になっていた」とのこと。
    ただ、このインノチェンティが絵をつけた『くるみわり人形』の英語版では、原作通り妹と兄と 書かれているので、絵をみるとなんかおかしい。
    まあ、国によって、民族によって、気になること、気にならないことが、それぞれにあるということ らしい。
    そういえば、『ルーム・ルーム』の話を社会学部の同僚にしたら、またおもしろい話が返ってきた。
    インドネシアかフィリピンで、日本の小説を訳していた翻訳者が作者に次のような内容の手紙を送った。
    「おじとおばがたくさん出てくるのですが、父方なのか母方なのか教えてください。こちらの言葉では、 父方のおじおば、母方のおじおばを表す言葉がそれぞれちがうのです」。そうきかれた、 日本の作者はこう答えたらしい。
    「そんなこと考えてなかった」
    たしかに日本の場合、あんまり会ったことのないおじさんおばさんって、父方も母方もないよなと思う。

  • 勝本 みつる (造形作家)「外出」

    いろいろなことが起きている。
    ものごとは、いつもいつも運動している。
    どこにあっても、なににおいても。

    庭の風景はいま、静止している。
    霜をのせ、うす白くなった葉がまだらによこたわる、視界のとおる庭。
    正面に見える東の塀まで枝をのばす夏みかんの樹は、ほぼ通年実を提げているらしく、冬枯れた色のなか、今朝など一身に日差しをあつめて福福しい。

    一区画さわと揺れた。
    南隣の屋敷から、ちいさい鳥が水平に移動してきた。ソメイヨシノの老木の、 なかでも枯れた一枝にやすみ、北側にしっくりたたずむ月桂樹の蔭へぬけた。
    うごいた気配は一瞬。また、もとの静寂。
    てまえに目を移すと、こちらの呼吸にあわせるように棕櫚の葉がゆったりと上下している。その葉先のこまやかなうごきは鍵盤を叩くふうにしか見えない (目をこらすと、ぎざぎざに分かれた葉先は三十ほど)。応えるように、まわ りの棕櫚の葉が、大きさも高さも向きもさまざまに頷きはじめる。その上方で は、ゆうに三階まで背丈を伸ばした李と木犀が揺れている。日差しにさそわれ るまま斜めに伸びたオリーブの樹が、庭のなかほどで、ほっそりした枝葉を振 りはじめた。白い蝶が舞う。アカンサスの深い緑の葉は天を仰いでゆさゆさゆさゆさ。

    オーケストレーション、ということばが浮かぶ。

    目のまえにひろがる空間がそっくり頭のなかへはいりこんでいる、あるいは頭のなかがこの庭そのもののような感覚がくる。
    だけど、たとえば日差しのぐあいや風のうごきなどはまだよいとしてうっかりひとつのところ
    花や実、葉や樹、そして土の中やらに深入りしてはいけない。
    葉っぱの組織がどのようで、草木の相関関係がどううつりかわり……。

    身体能力のように脳体力というものがあるのだろうか。
    叙事的であること。距離を間違えないこと。

    子どものころ、時代ものを好む明治うまれの祖父のそばで、よくテレビを見た。
    悪役側につく(それもお家の事情だ)家来やらはみな棒切れのようになぎ倒さ れ、画面にさほど映りもせず、果てる。かならず毎回きまってくりかえされる。
    「おうちでまってるひとがいるのになぁ」
    のりのわるい子どもは、勧善懲悪をあまり面白がることができなかった。気に 入りだったのは、おから(卯の花)が大の好物だという素浪人と蜘蛛がとくべ つ苦手な子分が活躍する時代もの。幼いなりの正義感や心配性を発揮すること もなく愉しんだ。なんという番組だったか、問うてみたい祖父はあの世にうつ って二十三年になる。

    母は日頃から大河ドラマを欠かさず見ているらしい。その手にまるきし関心の ない父に気を遣い、キッチンに据え置いた第二のテレビで。実家にもどったお り、食事の後かたづけなどひとしきりすませ、ふたたび食卓について母につき あう。そしてうっかり泣く。当の母はというと、けろりと乾いた顔で一心に画 面と向きあっている。

    (そうだった)ドラマはどこにでも起きている。
    庭の干草にうまりながら平らになっている猫の腹で、古めかしい焼却炉の石積 みの隙間で、北隣で着々とすすんでいるボーリング工事の地中深くで。

    いろいろなところに、出かけすぎてはいけない。

  • 竹谷内 桜子 (文筆家)「奇妙な椅子」

    日常の生活の中で、ちょっとした不思議な出来事や奇妙なものに出会うのが大好きです。先日も面白いことがひとつ。
    坂の上から友人が歩いて来るのが見えたので大声でその人の名前を呼んだところ、呼び終わるか終わらないかのところで全くの人違いであったことに気がつきました。
    「しまった!」と思うより早く、その見知らぬ人に「はーい」と返事をされて驚いたのですが、偶然にも同じ名前の方だったのですね。
    偶然と言えば、何気なく入った展覧会場で、陳列してある本をぱらぱらめくっていたら何かが本の中から飛び出して頭の上をかすめてゆきました。とっさに「何かの仕掛け絵本を壊してしまったのか」と不安に思ったのですが、よく見ればその頁の中から飛び出した黒い物体は蝶で、ひらひらと部屋の中を飛び回っています。ふとしたはずみで頁と頁の間に挟まったのでしょう。いつまでも呑気に天井近くでゆれていました。それにしてもよく潰れずにいたものだなぁ………。一体どうやって挟まったのかしら?
    家の近所にある街灯も不思議な奴です。立ち並んでいる街灯の中の、いつも同じ一本だけが傍らを通り過ぎる時に消えてしまうのです。おそらく配線の不具合だとか、そんな理由だと思いますが、何かいたずらをされている気分になりそこに一つの物語をこしらえてみたくなります。
    ある時雑貨屋さんのBGMでオールディーズの音楽がかかっておりました。そのうちに「ONLY YOU」のあの有名なイントロが流れ出しました。そして男性の甘い歌声で「ONLY TWO~」と歌われた時は自分の耳を疑ってしまいましたが。あれは私の聞き間違いだったのか、それとも二人の女性を愛した男の歌だったのでしょうか。今でも謎なんです。
    近頃はあまり無いことですが、古本屋さんの本には持ち主の書き込みがあったりします。メモの切れ端が挟まれていたりもして、そういったものを見つけるとこの本を読んでいた人はどんな人だったのかしらと、ここにもまた物語が生まれます。手紙が挟まっていた時は大当たりですね。大手の古本屋さんは書き込みのあるものは買い取らないし、中に挟んであるものは抜き取ってしまうので、近頃は面白いものに出会えず少し寂しいです。
    不思議なものの多くは理由が判明してしまえば合点がいくけれど、「あれは一体何だったんだろう」と謎がとけないままのものもあり、いつまでも心にひっかかったままになっています。その宙ぶらりんとした奇妙な感覚が、私はとても好きなのです。
    半年ほど前、旅先で一目惚れをしました。ふらっと立ち寄ったアンティーク家具屋さんにあった椅子にです。それは大昔の英国製の家具がひしめきあう店の中で、静かにガラスケースに収まっていました。私を虜にしたのはその形です。片側の背もたれは斜めに傾き、腰をかける部分も不自然に歪み、とても坐るために作られた椅子には思えません。
    何のための椅子なのかと店主に尋ねたところ、長い時の流れで素材の木が縮んだのですとのこと。一体どれだけの時をへたらこんな形になるのでしょうか。その変形の様に圧倒され、しばらく椅子を眺めておりました。
    値段を記すプレートにはただ「ASK」とだけ。恐る恐るいくらなんですかと聞くと、「まぁ……応相談ということです」とはぐらかされた。うーん、きっとよほどのお値段なのですね。
    それにしても何十万円何百万円の家具が居並ぶ中でのこの扱い。この椅子は何百万円?何千万円?いやまさか。どうしても価格が気になったけれど「ASK」の文字に反してその椅子は「何も聞くな」と言っているように思えました。
    見れば見るほど、その歪んだ椅子が気になってしまう。骨董品にのめり込む人には、こんな出会いは日常茶飯事なのでしょうね。
    時間の流れをいびつに体に刻み込んでガラスケースの中で沈黙している椅子は、ただただ美しく、後ろ髪を引かれながら帰りました。あの椅子にはもう会わないだろうけれど、そっと心にしまっておこう………。
    日常からほんの少しズレた物事は時に優しく、時に哀しく、時に愛らしく私を楽しませてくれます。今でも何処か遠くのお店の片隅や路地裏で、風変わりな物たちが待ってくれているのだと思います。  彼らの愛すべき姿を何とか素敵な物語にしていきたいと、いつも思っています。
    それにしても、あの椅子………いいなぁ。どんな人が買ってゆくのでしょうか。つらつらと思いめぐらせていたら居てもたってもいられず、再度見に行くことにしました。見たからってどうにかなる訳じゃないけれど、とにかく会いたい!
    車をとばし再び椅子と対面しました。
    何度見てもいいなぁ。若い店員さんが居たので、思い切って聞いてみることにしました。
    「あああ、あの椅子、おいくらなんでしょう」
    店員さん、笑顔で答えていわく、
    「ああ、あれっスか。一万八千円っス」
    ななな、なんともはや。
    聞けば珍しいものなので、ああやって展示しているとのこと。想像していた価格とのあまりの落差にショックをうけて、その日はそのまま帰りましたが、翌日しっかり注文の電話を入れました。
    明日、椅子が届きます。

  • 近代 ナリコ (文筆家・編集者)「”書く”というふしぎ」

    四月七日から細々と降り出した北雨は、どうみても芳しくない空の色合い、 低くうす黒く北から南へ流れる。怪しげなたたずまいで心を暗くした。北雨三 日の信条は今度だけは裏返したい。九日には混沌の詩碑がみんなの友情 によって目の前の畑の一角に建つ。花桃の明るい色がうららかに春を染め 出しているこの野天で、祝杯を楽しもうと誰もが今日までいろいろと努力して くれた。なのに、降るものは降り、吹くものは吹き、氷るものは季節をおしは かる危ない人間の観測頭脳をしびれきるほど凍らせて、まるで四月を一月 に置きかえてしまう無慈悲な自然の手の内。凛然と切り込んでくる北風と 氷雨が、総毛立ててからだを固くしてこらえるのが精一ぱいの日となった。

    吉野せい 「信といえるなら」

    「風が東北に廻って降り出すと三日の雨は続く」。経験からえた気象のあてが、このたびばかりははずれてほしい、せいのその願いもむなしく、夫、詩人の三野混沌の詩碑は、冷たい細雨のうちつける暗鬱な空のもとに建てられた。混沌の逝ったのは一九七〇年、五十年におよぶ夫婦生活であった。
    吉野せいは一八九九年、福島の網元の家に生まれた。娘時代に作家をこころざし、山村暮鳥、室生犀星らによる雑誌『プリズム』や『福島民友新聞』に短歌や短編を投稿、その才能を買われるが、三野混沌とであい、結婚。開墾生活のかたわら詩に生きんとする夫とともに阿武隈の山へ入植、その文学を封印した。
    夫の死から二年のその日、あつまった友人のうち、おなじいわき市で野の詩人として生き、ながらく混沌と交流のあった草野心平のつよい励ましをえて、ふたたび筆をとる。「信といえるなら」は、せいのその決意のあらましがえかがれた一篇である。
    七十を過ぎて文筆生活にはいったせいは、七五年、串田孫一の雑誌『アルプ』に掲載された短編をあつめた『洟をたらした神』で大宅壮一ノンフィクション大賞、田村俊子賞を受賞、注目されるが、その二年後に短い文筆生活の幕を閉じた。
    吉野せいの文学と生涯については、山下多恵子による評論『裸足の女』(未知谷、二〇〇八)にくわしい。山下によって編まれたせいのアンソロジー『土に書いた言葉』(未知谷、二〇〇九)の解説には、夫の混沌は無意識のうちにせいの才能を封印し、またせいもそのように思っていただろう、とある。絶えずことばと格闘する夫に添いとげ、せいは土を耕し、種をまき、子どもたちを育てあげた。その五十年ものあいだ、どれほどのことばがせいの奥底でわきおこり、積み重なり、押し黙っていたのだろう。せいの生によってあらい晒され、練り磨かれたことばが、ついに筆にのぼせられたとき、それは静かなねばりとしなやかさでもって、なんの余分もなく、かっきりと、せいの文学を表現させた。
    昨年の暮れ、友人が編集したという一冊の本をゆずりうけた。彼の祖母が嫁いでのち、ひそかに書きためていた歌を、その九十歳の記念にとまとめた歌集だった。せいの沈黙の歳月は、書く、書かない、書けない、そんな次元のはなしではなかった。しかし、それほどの壮絶な経緯はなくとも、なんのさまたげも、またためらいもなく書く、ということのかなわぬ女性たちが、私たちの背後にどれほどいたことか。そう思うとき、やすやすと書き、あるいは書けず、また書かずにもいられる私たちのいまをむしろふしぎと感じる。

  • 成相 佳南「絆」

    族、それは温かなぬくもりの空間であり、またズレや衝突を生じさせながらそれぞれの理想を戦わせる場所でもある。そこには、小さいながらも一つの社会が存在していいて、些細な喧嘩から深刻な問題まで家族の衝突は事欠かない。鬱陶しさを感じることもしばしばだ。私は最近、家でなぜこんなに毎日、家族と対立するのかと考えてみた。その理由の一つは子供の生意気な口応えがあることに間違いない。しかしそれだけではなく、家族とぶつかることは、社会で人と人とが数々のトラブルを乗り越え共存するために必要なプロセスなのだと思った。一人一人が家族の関係を大事に思う気持ちが、きっと血の繋がらない人同士をも温かい絆で結びつけていくのだろうと、思うようになった。
    中東地域やアフリカの貧困国など現在も至る所で、民族また国家同士の悲惨な衝突が繰り返されている。たとえばインドでは、無数の言語や宗教や生活様式が存在し、あらゆる民族や部族が混合して一つの国を形作っている。多文化の共存するインドは、絶え間ない争いの生じる社会である。道端での些細な口論から、カーストなど社会集団の間にみられる権利の主張のし合い、または2008年に起きたムンバイ同時多発テロのようにヒンドゥーとムスリムによる宗教的対立が悲惨な事態を捲き起こし、多くの犠牲を強いることがある。それぞれの衝突の背景には、外部の者が軽々しく口出しをすることなどできない、繊細なで複雑な問題が存在する。ただ、私は一つだけ伝えたいことがある。いかなる衝突が生じた場合にも決して忘れてはならないこと、それは人と人とが向き合い、互いの主張にほんの少し耳を傾けてみようという姿勢であると。
    私は、家族との絆に、人間が社会を構築する際のヒントが隠されているのではないかと思う。人は誰しも、大切な人を失いたくはない。アフリカのダルフールで何人もの市民を虐殺してきた兵士でも、自分の妹や母親を前にしたならば、その命を奪えなくなる。人々の日常を一瞬にして奪い去っていった過去の戦争や紛争の先導者も、自分の家族の命はどうにか守ってきたはずである。どうして、他人は犠牲にできるのか。その人の周囲にはまた別の、失われることが許されない大切な絆が存在するというのに。
    家族との間でさえも、和解が生まれるには時間がかかる。それを赤の他人同士、異なる文化や背景事情を持つ集団の関係において、互いに認め合うことが難しいのは当然だ。衝突や問題が起こるのは自然のことである。
    人と人が共存するためには、思いやる心がなくてはならない。多くの人が家族との関係を、すれ違い衝突しながらもどうにか思いやり合いながら築いてきたように、人と人との絆を大切にする社会であってほしいと願う。しかし違う考え方をする人も一方では存在するし、自分の行動が無意識にも人を傷つけてしまうこともある。人と人の関係に限らず、集団同士、民族同士、さらには国家同士、と規模が大きくなるに従って問題が複雑になっていく。そこに人と人との関係が無数に内包されていくのだから、当然のことだ。けれども、複雑で面倒で、時間がかかる問題であるとしても、まずは人と人との関係に戻して取り組んでみることが、一つの方法だと思う。
    家では、外では決して言葉にしないような暴言が飛び交うこともある。それほど近く親密に結ばれているから、家族とは他人と付き合うよりも小難しさや鬱陶しさが付きまとい、頭を悩ませることもあるだろう。しかし頭を悩ませた分、他者を思いやる想像力や一歩譲ることのできる心が育つのだと思う。おそらくその経験が助けとなって、私たちは血の繋がらない他人とも外の社会で絆を結んでいくのだ。どんなに小さくても、私は自分の存在する場所を、人間味や温かさの感じられる空間にしていきたい。そして、絆が生む新しい力を信じてみたいと思う。

  • 平岡 淳子 (詩人)「共犯」

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  • 華雪 (書家)「長距離バス」から

    新宿西口の大学前の広場に続く植え込みの石段によじ上り、足をぶらつかせながら、さっきコンビニで買った缶に入ったウイスキーの水割りを飲む。ナッツ入りチョコレートを時々齧りながら、バスがやって来るのを待つ。辺りにはリュックサックを背負った同年代らしき男の人、洋服の入った紙袋をいくつも持って少し高い声色で話し続ける若い女の子達、背広を来て神妙な顔つきでじっと立つ男の人、バスの受付の列へ静かに話しながらゆっくりと歩いて行く老夫婦、老若男女とはこんな様子を言うのだろう。脈略のない人々が、夜中の新宿の路上でバスを待っている。
    地方で展示をやるようになってから、年に何度も長距離バスに乗るようになった。夜中のバス、昼間のバス、週に2度3度と乗っていると国内を移動しているのに時差ボケになったりもする。知らない人と肩や腕が触れ合ったまま半日ちかい時間を過ごすことに慣れるまで随分時間が掛かった。30歳を越えて、友人にはいい加減にバスはやめて、新幹線に乗ればと勧められるようになったけれど、バスに乗っている時間には何か惹かれるものがあった。そうしている内に、一人分の座席の空間で、足を立て膝にし、身体を丸めて、頭を座席と窓の間の隙間に詰め込むようにすると落ち着くことが出来るようになっていった。眠ることが出来ればいいのだが、そうやっていても眠ることの出来る時もあれば、うとうとと浅い眠りが続くこともある。眠らなければいけないと思っていたのをあきらめて、うまく眠ることが出来ても全く眠ることが出来なくてもどちらでもいいと思うようになったら、知らない人々の中の狭い座席にいることも、8時間の移動時間も気にならなくなっていた。
    バスはたいてい3時間おきにサービスエリアで休憩を取るために停まる。バスが
サービスエリアに入ると小さく電灯が点き、出発時間を書いた札が置かれる。それを横目に、うとうととした頭のままバスの外へ、とにかく降り立つ。出入り口の階段を2段降りると、どこであろうと正面に建物があって、白い看板にはサービスエリアの名前、その場所の地名が書かれている。そんな風に突然現れる地名は、わたしにはただの文字の並びでしかなく、一体自分の立っている場所がどこなのかは全く分からない。分からないまま、自分の足が踏みしめている一面の雪に驚いて、その向こうでぼんやりと明るい灯りを灯しているガソリンスタンドに、なぜか息が詰まりそうなほど目を見張る。クーラーで冷えた身体がむっと真夏の熱気に囲まれ見上げた雲のない青い空に見とれる。ベンチでコーヒーを飲み
ながら、頭の上に翻る日の丸の旗を見て、前に同じ場所に座ったことを思い出す。続く山並みから漂って来る空気を吸い込む。どこにいるのかわからなくても、目の前に確かにあるものがあるのだと、目は思う。心に沈み込んで来るものがある。
    バスに乗っている間は、目に映るものに目を凝らしている。ただじっと見ている。新宿から行き先へ運ばれていく、その間に途中下車はもちろん出来ない。目の前を、ここでも、行き先でもない、その間を繋ぐ道行きの中にある場所が次々と現れて過ぎて行く。わたしが生きていると思っている時間とは別の、膨大な時間が散りばめられている景色を見ている。そこにたくさんの別の人生があることを想像して見ている。それらから何を思う訳でもなくただ見ている。見ても見ても、バスの時間は続く。そんな目の前を過ぎ続けていく景色を見ていると自分のことがだんだん淡くなって来る気がする。
    そうやって地面の上を順を追うように移動していくバスがわたしはきっと好きなのだ。狭い座席にじっと座って、ここから行き先までの間の道のりを知らされないままに運ばれる時間の中では、日々傍にある時間も場所も人も少しずつ遠ざかって、ひとりきりになって行く心地がする。そして、そんな心が解かれるようなひとりきりの心地が過ぎ去った後には、急にどこだかわからないここは月がとても美しく明るいと伝えたい人がいることに気が付いて心が揺すられる。
    幾重にも言葉の重なる心が埋まったひとつだけの身体を抱えて、ひとつの場所からひとつの場所に向かうしかないのだと、ある日ふいに思ったのだった。『一帰
何処 ー ひとつ、いずれのところにか帰する』。禅語句集のページをめくっていて、ひとつの場所に落ち着く、そのひとつの場所はどこなのかと書かれたページで指先が止まった。最初、それを読んで、仰々しいと思ったのだった。それでも、なぜかそのまま読み飛ばすことが出来ず、手元の紙切れに鉛筆で書き写して、机の前に貼った。毎日、その紙切れの前を行ったり来たりしながら、読むでもなく、けれどその書かれた字は目に入っていた。
    ある日、身体はひとつなのに、その心の中には、たくさんの言葉が、温かい言葉も刃物の言葉も、毒の言葉も柔らかな言葉も甘い言葉も呪う言葉も愛おしむ言葉も、混ざり合って重なり合ってぎっしりと詰まっているのだと思い知った。数日後の夜中、紙の上に、バスでの時間を思い出しながら文章にもまだならないメモ書きのような文章を鉛筆で殴り書きしていたら、そのひとつの身体を帰す場所を、わたしは長距離バスの道行きの中でいつも気付かされていたのだと思った。

  • ふなびき かずこ (漫画家) 「ぶう太 魚をさばく」

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  • 宇野 亜喜良 (イラストレーター)「アニエスの浜辺」から

    ファナティックな、あるいはペダントリックな映画鑑賞家ではないのだが、それでも映画は好きなほうだと自分で思う。
    「アニエスの浜辺」というアニエス・ヴァルダ作品を見た。80歳で作ったドキュメンタリーである。といっても映画という虚構性と真実を知りつくし、もう一つのリアリティを設計するヴァルダなのだから、パリの街の一角にトラック6台分の砂を撒き浜辺を造ってしまい、路上のオフィスが設けられる。そこでアニエスは銀行と電話のやり取りをしたりする。「浜辺」という映画を制作するのだけれど、無利子で金を借りたいといったり、コンピュータで仕事をする助手のいるところへ雨が降ってきたりする。ビニールシートをかけるスタッフたち、この雨は多分人工的な雨なのだろう。映画を作るプロジェクトをいかにも映画という道具立てで、しかもシュールな風景の中に設定する。
    アニエスは生まれてからの記憶が残っている土地や人物の記録からこの映画を始める。もちろん映画作家になるきっかけや、作った映画に関する記憶、エピソードなどが作品の映像を交えて記述されていく。
    「ヌーベルヴァーグ」について語る断片も面白い。「安い制作費で集客率の良い映画を作ろう。そしてその発想でゴダールの『勝手にしやがれ』が出来上がった。続いてその同じ発想でわたしは『5時から7時までのクレオ』を撮った」といっているのである。
    ヌーベルヴァーグも映画の前衛として、文学的に、あるいは思想方法論的に語られることが多い中で、この発言は異色でもう一つの真実でもあるのであろう。
    ぼくは、アニエスの全作品を観てはいないのだけれど、「5時から7時までのクレオ」「幸福」「歌う女・歌わない女」「冬の旅」「アニエスv.によるジェーンb.」「ジャック・ドゥミの少年期」「百一夜」「落穂拾い」といったそれぞれリアルタイムで観た映画、そして、それに夫であるジャック・ドゥミのいくつかの作品が、映像に重ねてアニエス自身のナレーションで回顧されていく。
    ビジュアルを連帯したドゥミの二時間にわたる回顧録は、これらの映画を観ていたぼく自身の青年期、壮年期、そして現在に至る人生の早回しの回想もうながされてもいたのであった。
    映画を観ながらちょっと別の位置で個人のセンチメンタルな旅を体験させてくれる映画なのであった。

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    映画好きの宇野亜喜良がシネマに捧げたオマージュ・イラストレーション集 『ル・シネマ』(マガジンハウス/絶版)

  • 村山匡 一郎 (映画評論家)「映画の記憶」

    いつだったか、幼い頃に見たうちで記憶にもっとも古く刻まれている映画は何だろうか、と思いついたことがあった。映画を生業にしていると、新作を消費する日々に追われるが、そのほとんどの映画が記憶から薄れていくような状態への一種の反動だったのかもしれない。そのとき脳裏に浮かんだのは、和船の舳先に立って前方を凝視する若武者の姿を描いたシーンである。おそらく昭和35年頃、小学校の4年生か5年生に見たものだったろうか。当時は東映時代劇の全盛期であり、中村錦之助や東千代之介ら若手スターが子供たちの人気を集めていたときだ。そう思って調べてみると、どうやら昭和31年の『風雲黒潮丸』のようだ。主演は、記憶では里見浩太郎と何となく思っていたが、里見のデビューは翌年であり、伏見扇太郎ということが判明した。見たのは渋谷東映であり、おそらく封切のとき。そうだとすれば、小学2年生のときである。
    不思議なのだが、映画の記憶は若い頃に見たときほど鮮明に刻まれていることが多い。それは決して作品全体というのではなく、ひとつのシーンだったり、物語の一部だったりするが、それでもかなり鮮やかに残っている。今年も街中で不意に昔の記憶が蘇ってくるのを体験した。この9月に開催されたアジアフォーカス・福岡映画祭に呼ばれて行ったときのことだ。仕事の合間に天神の繁華街を徘徊していたとき、あるレコード店の店先にDVDの棚があり、何気なく目をやると飛び込んできたのが『エノケンの天国と地獄』。昭和29年の新東宝の作品である。これを見たのは封切ではなく、おそらく小学6年生の頃、テレビ放映されたときだったと思う。エノケン扮する父親が死後に幽霊になって、現世に残された若山セツ子扮する妻と子供に会いにくるという話であるが、当時、感情的にかなり衝撃を受けたことを憶えている。
    こうした映画の記憶は、年齢を重ねるごとにあまり鮮明には残らなくなるような気がする。『エノケンの天国と地獄』も、もしいま初めて見たとしたら、これほど鮮やかに記憶に刻み込まれるかどうかはわからない。そのわけは、おそらく年齢とともに個人の記憶に残る体験の範囲が広がったり、深まったりして、映画を見た体験にはほんのささやかな記憶の容量しかあてがわれなくなるからだろう。それでも大人になってから不意に幼い頃に見た映画の記憶が蘇ってくるのは、映画館の暗闇に浮かび上がるスクリーンの光の世界が幾らか記憶の世界に似ていることからくるのかもしれない。実際、ビデオやDVDで映画を見たときの印象が映画館のスクリーンで見たときの印象よりも薄く、記憶に残りにくいのは、体験的に知れるところだ。福岡で『エノケンの天国と地獄』のDVDを思わず買ってしまったが、記憶が裏切られるのを恐れて未だ見るのを控えている。
    もっとも次のような体験もある。年齢を重ねるごとに見るのと違った印象を抱くような映画があることだ。たとえば、小津安二郎の映画がそうだ。10代で見た印象と30代、あるいは50代で見たときの印象はそれぞれまるで異なる。それというのも、小津の映画は見る側の感情におもねることのない独特の美学を貫いているため、見る側の感情や思いによって大きく変容してしまうからだ。そこから、たとえば『晩春』で原節子扮する娘を嫁にやる笠智衆の父親の思いと姿を描いたシーンなど、10代の若者の見方と50代の人生体験の蓄積からくる見方とでは大きな違いが生まれることになる。こうした小津のような映画は世界でも稀なものであり、それは記憶に鮮やかに残ると同時に記憶にとどまることを拒んでいる映画といえなくもない
    映画の記憶ということがいえるなら、記憶の映画というのもありえるだろう。つまり、作り手が記憶やその流れを映画にすることだ。すぐに思い出されるのは、アラン・レネの『二十四時間の情事』や『去年マリエンバートで』だろうか。両者ともに記憶をテーマにドラマ化されたものだ。もっとも映画は、小説に似て、過去の思い出や出来事をプロットに仕立てやすいメディアであり、その意味では映画、つまり劇映画は何らかの形で記憶の世界を取り込んでいるとはいえる。そうしたなかで、個人映画というジャンルではもっと大胆に記憶そのものを描き出している映画もある。たとえば、記憶の映像作家と呼ぶにふさわしい、かわなかのぶひろの『私小説』。これは自らが撮りためた映像を使って意識の波間にたゆたうような記憶の流れを作り上げている映画であり、まるで作り手の記憶の流れをそのまま見ているような、きわめて刺激的な映画である。
    映画を見るとは、一種の出会いのような気がする。もちろんそれは小説や絵画などほかのものにもいえることだが、そのとき、記憶に残るに足る何かと出会えるかどうか、そこにかかっていると思う。民間の映画学校で一緒に教えている友人の映画作家が学生によくいうのは、どんなに一生懸命に作った作品でも観客の記憶に残らなければ無に等しいということ。記憶に残らなければ、忘れられてしまう。忘れられたら、存在しないのと同じである。『風雲黒潮丸』も『エノケンの天国と地獄』も日本映画史のなかでは忘れられた映画であるが、「私」のなかには確かに存在する。見知らぬ誰かの心に刻まれていることこそ、映画であれ何であれ、創造された作品の存在意義があるといえるだろう。現在、映画館の暗闇に身を沈めてスクリーンの光の世界を覗き見ることが年々薄れている。とくに小学生や中学生はほとんど映画館に足を運ばなくなったという。彼らの幼い記憶にとどまるのはいまや何だろうか。

  • 落合 佐喜世 (エクリ)「薔薇色の街―アルメニアの旅」

    「一人で行くなんて!」と、モスクワの友人に心配されつつ、内心初めての地にわくわくしながらロシアからアルメニアの首都エレバンに向かった。ロシアは、詩人アルセーニー・タルコフスキーのゆかりの人、地を訪ねての再訪であったが、アルメニアに知人はいない。エレバンの街を一人で朝から晩まで歩いた。道を聞いたおばさんに、日本から来ました、と話すと、「まあ、ゲロイーニャ(ロシア語でヒロインつまり女傑という意味)だこと!」と言われた。
    楕円形の顔のなかの黒く太い半円を描く眉、長いまつげにくまどられた大きな眼、高く立派な鼻、そして黒い髪。あの放浪の画家「ピロスマニ」(シエンゲラーヤ監督)のような、「火の馬」の監督パラジャーノフのような風貌の男たち。彫りが深く、濃い眉と眼の美しい女たち。
    街角からどちらを振り返っても、街は薄い薔薇色の濃淡に見える。建物がアルメニアに多いトゥフ呼ばれる凝灰岩の組み合せによって積み重ねられているためだ。この薔薇色は、フラ・アンジェリコの天使の衣、アンドレイ・ルブリョーフのイコンやフレスコの天使の衣の色を思わせる。澄んだ温かみのあるわたしにとって憧憬の色だ。カフェやレストラン、ブティックなどが連なる詩人の名がつけられた街の中心、サヤト・ノヴァ通りの広い並木道に立つと、そぞろ歩く人々やバルコニーに顔を出して談笑する人々に、樹々の葉を透かして陽光がこぼれ、ふわりと淡い薔薇色の夢のなかにいるようだ。すこし外れるとアパートの窓と窓をロープでつないで、そのモザイクのような美しい外壁をバックに、色とりどりの洗濯物が揺れている。その中庭では、刈り取られた白い羊の毛がシートに干されていたり、野菜や果物を積んだ車を囲んで人々が売り買いしている。市場でも店先でも露天でも、ざくろとぶどうが山盛りに輝いていた。話しかけたり尋ねたりしたどの人も肩を抱きかかえるようにして答えてくれた安らいだ街を、その柔らかい薔薇色とトゥフという優しい音とともに思い出す。

    アルメニアといっても,どこにある国か、どんな国か、私の周りに知っている人は少ない。チャーチルも絶賛したという香り高いアルメニアコニャック、旧約聖書のノアの方舟が流れ着いたというアララット山伝説を聞いたことがあるくらいだろうか。西は黒海、東はカスピ海のコーカサス地方にある国の一つで、周りのトルコ、イラン、ロシアなどの大国に支配、分割され続け、強制移住、集団虐殺の苛酷な歴史を背負っている。そのアルメニアは、西暦301年に世界でもっとも早く、キリスト教を国教化した国である。エレバン郊外の古都エチミアジン市を訪ねた。エチミアジンは「神が降臨した地」という意味だそうだ。八角錘のドームを頂く十字架プランのどっしりした大聖堂は、現在も1700年の歴史を背負うアルメニア教の総本山である。キリストが聖人グレゴリウスに現れ、金の槌で地を打ったと言われる場所にお告げに従って303年に建てられた。周辺には、当時異教徒であったローマ皇帝を拒絶したために石打の刑にされた尼僧を祭るために7世紀に建てられたガヤネ教会、リプシマ教会という、小さなドームを頂くアルメニア建築様式のこじんまりした教会がある。森閑とした境内を信者たちが掃き清めている。聖堂内では訪れた人々が、浅く水を張って砂をもった台にろうそくをともし、十字を切って祈り続けている。プラトークをかぶったおばあさんが、願いの数だけの本数を立てるのだと小声で教えてくれた。ロシア正教とは教義を異にするため、これらアルメニア教の寺院にイコンはない。聖人やマリアなどのフレスコ画はあるが、縦1メートル、横50センチくらいの凝灰岩の石板の中心に十字架を、その隙間に精緻な幾何学模様が彫られたハチュカールと呼ばれる十字架石が、堂内にも入口にもいくつも立て掛けられたり、並べられて拝まれている。訪ねたどの教会も詣でる人が絶えない。

    清楚で控えめであるが荘重な聖堂の姿は、ロマネスク教会を思わせる。そしてそのアルメニアの教会建築に、アルセーニー・タルコフスキーの詩は比せられることがある。端正で簡潔なフォルムと豊かさに満ちていると。アルメニア、グルジアなどのコーカサスの詩の翻訳をてがけたアルセーニーは、ロシア語に移すにあたって、その独自の色彩を感得し、比類ない詩情世界を再現させていると言われる。たとえば絢爛たる恋愛抒情詩と言われるサヤト・ノヴァの詩のロシア語は情熱を秘めた優しさに満ちている。ロシアの詩聖といわれるプーシキンも、タルコフスキーと同時代の、やはりスターリン体制の犠牲となった詩人マンデリシュタームも、アルメニアを旅し深く惹かれ詩に謳った。コーカサスはロシアの詩人たちにとっても、創造の源泉であったのだろう。モスクワの友人も、ヨーロッパやグルジアなどへは何度も出かけているが、アルメニアは「いつか訪ねることがわたしの夢!」と憧れを秘めたように語ってくれた。

    地図を頼りに、樹木多い広大な子ども公園をぬけ、パラジャーノフ博物館をさがしながら坂道を上ってゆくと、真下にほんのりと薔薇色のエレバンの町並みと川を見下ろし、はるか遠くに雪をかぶったアラッラット山がくっきり望める高台に出る。そこに瀟洒なやわらかい色の建物が立っている。鬼才パラジャーノフは、両親がアルメニア人のグルジア生まれ、音楽や絵画、舞踏などの体験を経てモスクワの映画大学で学んだ。そしてウクライナのキエフで映画を撮っていたという、民族を越えた映画監督だった。その芸術的主張を貫いたゆえに、ソ連体制と衝突し、なんども逮捕、投獄を繰り返し、66歳でなくなった。アルセーニーの息子であり、自身も亡命を余儀なくされた映画監督のアンドレイ・タルコフスキーも尊敬する彼の減刑を当局に幾度も請願したという。アンドレイが形象を削り落として映像に深く沈潜するなら、パラジャーノフは形象を溢れさせ、変貌させる。作品の素材である陶磁器の破片群、衣装や布、楽器、イコンから、「モナリザ」や「最後の晩餐」をはじめとするダビンチの作品、クレー、フェルメールの作品などの多彩でデフォルメされたオブジェたち。パラジャーノフにはグルジア、ウクライナなど、コーカサスの国々をテーマとした映画があり、民族のシンボルが次々と現れる。アルメニアの詩人サヤト・ノヴァの生涯を映像化した「ざくろの色」には、私がアルメニアの短い滞在に出会った人々やものたちが溢れている。薔薇色の石の住まいと薔薇色の教会、ハチュカール、そして真っ赤なざくろとぶどうのワイン作り、生贄の羊。

    エレバンで知り合った人々に私が訪ねた教会の名を挙げると、「まあ、あなたには神様のご加護がありますよ」と必ず言われた。厚い信仰に裏付けられた、最初のキリスト教徒としての自負と、つねに遠くに望まれる霊峰アララット山、そしてこのころ作られたというアルメニア文字は、周辺との度重なる戦いの中で、国民の精神的支柱であり続けたに違いない。そして、これまで中世ロシアキリスト教美術を辿ってきた私には、今その芯に触れた思いが生まれている。

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    (左)リプシマ教会/(右)ハチュカール

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