リレーコラム

  • 金原 瑞人 (翻訳家・法政大学教授)「気になること、気にならないこと」

    翻訳をする際、どちらでもいいこと、というのがある。
    ① 「トムは言った」とか「ジェインは言った」とか原文には書いてあるんだけど、 それをそのまま日本語に訳すと、うざったいことが多い(英語の場合、男言葉、女言葉の差があまりないし、 終助詞なんてものはもともとないから、どうしてもそうなる)。
    そういう場合「トムは言った」とか「ジェインは言った」とかは削っちゃっていいのか。
    ② マイルやガロンやポンドはそのまま訳したほうがいいのか、それとも、 キロメートルやリットルやキログラムに直したほうがいいのか。
    ③ 英語では夫婦はおたがい相手を「ニック・メアリ」とか、名前で呼ぶけど、 日本では妻が夫を名前で呼ぶことはあまりないから、「あなた・メアリ」と訳したほうがいいのか、 それとも、英語圏ではこうなんだから、「ニック・メアリ」のままのほうがいいのか。
    とまあ、こんなのはどっちでもいいのだ。
    たとえば、①の場合、青山南さんは昔は削っていたけど、そのうち削らないことにしたとエッセイに 書いている。ときどき読者から、「トムは言った」という訳が抜けていますという投書がくるように なったからというのがその理由。ちなみに、金原はその手の言葉は徹底的に削る。削れるだけ削る。 そのほうが日本人には読みやすいし、そのぶんインクも紙も節約できるからだ。また、青山さんには 熱心なファンが多いけど、金原にはあまり多くないからでもある。
    たとえば、②の場合、金原はキロメートル、リットル、キログラムに直す。 基本的に読者を信用してないからだ。たとえば、学生に英文和訳をさせていて、 「あ、きみ、時速50マイルって訳したけど、それって何キロくらい?」とたずねて、いままでちゃんと 答えられたのはせいぜい20人に1人か、それ以下だった。普通の日本人は(法政の学生に「普通の日本人」を 代表させるのはちょっと違うかもしれないけど)、そんなこと知らないし、知らないまま海外の小説を 読んでいるのだ。なら、わかるように日本で使われている度量衡の単位に直してやるのが親切というものだ。 だいたい、アメリカはガソリンをガロンで売っている。「この車、1ガロンで50マイル走るんだよ」と いわれたところで、燃費がいいのか悪いのかさっぱりわからない。
    (ずいぶん昔の作家だけど、エリナ・ファージョンの『ムギと王さま』(石井桃子訳)という 短編集のなかに「十円ぶん」という作品がある。原題は A Penny Worth だったと思う。 いまなら、さすがに、この訳はなかったかもしれない)。
    たとえば、③の場合は、それこそ訳者によって様々で、金原の場合も読者が子どもの場合と大人の場合で 分けて考えることが多い。
    というわけで、まあ、どちらでもいいのだ。
    しかし、もう少しつっこんだところで、どちらでもいいことがある。
    たとえば’A neighbor’s brother, came visiting from Australia, loved Janet, and carried her back to Adelaide as his bride.’という場合、 訳に困るのが’brother’という言葉だ。「近所に住んでいる人の兄弟がオーストラリアからやってきて、 ジャネットを好きになって、アデレイドに連れ帰って結婚した」とすると、日本語としてとても変だ。
    まるで2人か3人がやってきたみたいに読める。もちろん、やってきたのは1人。
    日本の小説なら、きっと「お兄さんが」とか「弟が」と書いているところだろう。 あるいは、「兄か弟かはわからないが、そのどちらかがやってきて」という場合もあるかもしれない。
    つまり日本人は、「兄弟」であっても、年が上なのか下なのか気になってしまうのだ。
    一方、欧米では気にしない。「兄弟」なんだから、それさえわかればよくて、 年の上下なんてどうでもいいじゃん、というのがむこうの考え方、というか感性だ。その証拠に、 というわけでもないけど、兄も弟も、姉も妹も、みんなおたがいに名前で呼び合う。
    だから、小説なんかの場合、最後まで年の上下がわからないということもけっこうあったりする。
    まあ、年の差が2歳か3歳、いや、5、6歳くらいまでだったら、それもいいかと思うけど、 10歳離れていようが20歳離れていようが、どうでもいいらしい。30歳離れていても、 欧米では兄弟姉妹は名前で呼び合う。
    10年くらいまえ、コルビー ロドースキーの『ルーム・ルーム』という本を訳したとき、 ちょっと困ってしまった。主人公の女の子が、お母さんが死んで、その親友のところに引き取られる という話なんだけど、そこで母親代わりのおばさんのきょうだいが一同に集まるところがある。
    それもずいぶんたくさんいる。ところが、年齢がまったくわからないどころか、長男長女さえわからない。
    ちょっと訳しづらいので作者に「年齢順に並べてみてもらえませんか」とメールを送ったら、 「そんなこと考えてなかった」という返事。日本人としては、「おいおい!」という感じなのだが、 欧米の人にとってはどうでもいいことなのだ。
    ということは、さっきの’A neighbor’s brother’なんてのは、「近所に住んでいる人のお兄さん」 でもいいし「近所に住んでいる人の弟」でもいいのだ。
    兄弟姉妹であればそれでよくて、年齢差にはこだわらないのが欧米、そういっていいと思う。
    ただ、どちらでもいいものの、絵本なんかの場合は、どちらかに決めてしまわないと、 絵が描けないから、当然、どちらかに決めてしまう。それで不思議な思いをしたことがある。
    ドナ・ジョー・ナポリという作家の『逃れの森の魔女』という作品を訳していたときのことだ。
    これはグリムの「ヘンゼルとグレーテル」のパロディなんだけど、姉と弟という設定になっていたのだ。
    あれ、日本と逆じゃん、と思って作者に問い合わせたら、英米ではほとんどヘンゼルが弟として 描かれているとのことだった。そこで調べてみたら、その通りだった。まあ、たしかにこの話、 後半はグレーテルが活躍するし、ヘンゼルは案外と頼りにならない。
    ほかにも、ロベルト・インノチェンティが絵を描いた『くるみわり人形』を訳したときのことも 印象に残っている。ホフマンの作品では、主人公の女の子マリーとその兄が出てくるのに、 インノチェンティの絵はどうみても、姉と弟なのだ。そこで、彼が日本にきたときにたずねてみたら、 「いままで自分の読んできた本・絵本ではすべて、姉と弟になっていた」とのこと。
    ただ、このインノチェンティが絵をつけた『くるみわり人形』の英語版では、原作通り妹と兄と 書かれているので、絵をみるとなんかおかしい。
    まあ、国によって、民族によって、気になること、気にならないことが、それぞれにあるということ らしい。
    そういえば、『ルーム・ルーム』の話を社会学部の同僚にしたら、またおもしろい話が返ってきた。
    インドネシアかフィリピンで、日本の小説を訳していた翻訳者が作者に次のような内容の手紙を送った。
    「おじとおばがたくさん出てくるのですが、父方なのか母方なのか教えてください。こちらの言葉では、 父方のおじおば、母方のおじおばを表す言葉がそれぞれちがうのです」。そうきかれた、 日本の作者はこう答えたらしい。
    「そんなこと考えてなかった」
    たしかに日本の場合、あんまり会ったことのないおじさんおばさんって、父方も母方もないよなと思う。

other column back number