「一人で行くなんて!」と、モスクワの友人に心配されつつ、内心初めての地にわくわくしながらロシアからアルメニアの首都エレバンに向かった。ロシアは、詩人アルセーニー・タルコフスキーのゆかりの人、地を訪ねての再訪であったが、アルメニアに知人はいない。エレバンの街を一人で朝から晩まで歩いた。道を聞いたおばさんに、日本から来ました、と話すと、「まあ、ゲロイーニャ(ロシア語でヒロインつまり女傑という意味)だこと!」と言われた。
楕円形の顔のなかの黒く太い半円を描く眉、長いまつげにくまどられた大きな眼、高く立派な鼻、そして黒い髪。あの放浪の画家「ピロスマニ」(シエンゲラーヤ監督)のような、「火の馬」の監督パラジャーノフのような風貌の男たち。彫りが深く、濃い眉と眼の美しい女たち。
街角からどちらを振り返っても、街は薄い薔薇色の濃淡に見える。建物がアルメニアに多いトゥフ呼ばれる凝灰岩の組み合せによって積み重ねられているためだ。この薔薇色は、フラ・アンジェリコの天使の衣、アンドレイ・ルブリョーフのイコンやフレスコの天使の衣の色を思わせる。澄んだ温かみのあるわたしにとって憧憬の色だ。カフェやレストラン、ブティックなどが連なる詩人の名がつけられた街の中心、サヤト・ノヴァ通りの広い並木道に立つと、そぞろ歩く人々やバルコニーに顔を出して談笑する人々に、樹々の葉を透かして陽光がこぼれ、ふわりと淡い薔薇色の夢のなかにいるようだ。すこし外れるとアパートの窓と窓をロープでつないで、そのモザイクのような美しい外壁をバックに、色とりどりの洗濯物が揺れている。その中庭では、刈り取られた白い羊の毛がシートに干されていたり、野菜や果物を積んだ車を囲んで人々が売り買いしている。市場でも店先でも露天でも、ざくろとぶどうが山盛りに輝いていた。話しかけたり尋ねたりしたどの人も肩を抱きかかえるようにして答えてくれた安らいだ街を、その柔らかい薔薇色とトゥフという優しい音とともに思い出す。
アルメニアといっても,どこにある国か、どんな国か、私の周りに知っている人は少ない。チャーチルも絶賛したという香り高いアルメニアコニャック、旧約聖書のノアの方舟が流れ着いたというアララット山伝説を聞いたことがあるくらいだろうか。西は黒海、東はカスピ海のコーカサス地方にある国の一つで、周りのトルコ、イラン、ロシアなどの大国に支配、分割され続け、強制移住、集団虐殺の苛酷な歴史を背負っている。そのアルメニアは、西暦301年に世界でもっとも早く、キリスト教を国教化した国である。エレバン郊外の古都エチミアジン市を訪ねた。エチミアジンは「神が降臨した地」という意味だそうだ。八角錘のドームを頂く十字架プランのどっしりした大聖堂は、現在も1700年の歴史を背負うアルメニア教の総本山である。キリストが聖人グレゴリウスに現れ、金の槌で地を打ったと言われる場所にお告げに従って303年に建てられた。周辺には、当時異教徒であったローマ皇帝を拒絶したために石打の刑にされた尼僧を祭るために7世紀に建てられたガヤネ教会、リプシマ教会という、小さなドームを頂くアルメニア建築様式のこじんまりした教会がある。森閑とした境内を信者たちが掃き清めている。聖堂内では訪れた人々が、浅く水を張って砂をもった台にろうそくをともし、十字を切って祈り続けている。プラトークをかぶったおばあさんが、願いの数だけの本数を立てるのだと小声で教えてくれた。ロシア正教とは教義を異にするため、これらアルメニア教の寺院にイコンはない。聖人やマリアなどのフレスコ画はあるが、縦1メートル、横50センチくらいの凝灰岩の石板の中心に十字架を、その隙間に精緻な幾何学模様が彫られたハチュカールと呼ばれる十字架石が、堂内にも入口にもいくつも立て掛けられたり、並べられて拝まれている。訪ねたどの教会も詣でる人が絶えない。
清楚で控えめであるが荘重な聖堂の姿は、ロマネスク教会を思わせる。そしてそのアルメニアの教会建築に、アルセーニー・タルコフスキーの詩は比せられることがある。端正で簡潔なフォルムと豊かさに満ちていると。アルメニア、グルジアなどのコーカサスの詩の翻訳をてがけたアルセーニーは、ロシア語に移すにあたって、その独自の色彩を感得し、比類ない詩情世界を再現させていると言われる。たとえば絢爛たる恋愛抒情詩と言われるサヤト・ノヴァの詩のロシア語は情熱を秘めた優しさに満ちている。ロシアの詩聖といわれるプーシキンも、タルコフスキーと同時代の、やはりスターリン体制の犠牲となった詩人マンデリシュタームも、アルメニアを旅し深く惹かれ詩に謳った。コーカサスはロシアの詩人たちにとっても、創造の源泉であったのだろう。モスクワの友人も、ヨーロッパやグルジアなどへは何度も出かけているが、アルメニアは「いつか訪ねることがわたしの夢!」と憧れを秘めたように語ってくれた。
地図を頼りに、樹木多い広大な子ども公園をぬけ、パラジャーノフ博物館をさがしながら坂道を上ってゆくと、真下にほんのりと薔薇色のエレバンの町並みと川を見下ろし、はるか遠くに雪をかぶったアラッラット山がくっきり望める高台に出る。そこに瀟洒なやわらかい色の建物が立っている。鬼才パラジャーノフは、両親がアルメニア人のグルジア生まれ、音楽や絵画、舞踏などの体験を経てモスクワの映画大学で学んだ。そしてウクライナのキエフで映画を撮っていたという、民族を越えた映画監督だった。その芸術的主張を貫いたゆえに、ソ連体制と衝突し、なんども逮捕、投獄を繰り返し、66歳でなくなった。アルセーニーの息子であり、自身も亡命を余儀なくされた映画監督のアンドレイ・タルコフスキーも尊敬する彼の減刑を当局に幾度も請願したという。アンドレイが形象を削り落として映像に深く沈潜するなら、パラジャーノフは形象を溢れさせ、変貌させる。作品の素材である陶磁器の破片群、衣装や布、楽器、イコンから、「モナリザ」や「最後の晩餐」をはじめとするダビンチの作品、クレー、フェルメールの作品などの多彩でデフォルメされたオブジェたち。パラジャーノフにはグルジア、ウクライナなど、コーカサスの国々をテーマとした映画があり、民族のシンボルが次々と現れる。アルメニアの詩人サヤト・ノヴァの生涯を映像化した「ざくろの色」には、私がアルメニアの短い滞在に出会った人々やものたちが溢れている。薔薇色の石の住まいと薔薇色の教会、ハチュカール、そして真っ赤なざくろとぶどうのワイン作り、生贄の羊。
エレバンで知り合った人々に私が訪ねた教会の名を挙げると、「まあ、あなたには神様のご加護がありますよ」と必ず言われた。厚い信仰に裏付けられた、最初のキリスト教徒としての自負と、つねに遠くに望まれる霊峰アララット山、そしてこのころ作られたというアルメニア文字は、周辺との度重なる戦いの中で、国民の精神的支柱であり続けたに違いない。そして、これまで中世ロシアキリスト教美術を辿ってきた私には、今その芯に触れた思いが生まれている。
(左)リプシマ教会/(右)ハチュカール