ぼくは1951年3月生まれなので、学年では一級上の組に入っていた。47年~49年のいわゆる「団塊の世代」には属さない。当時の小・中学校ではこの団塊世代対策として、不足している教室等の拡充に追われていた。おかげでぼくには教室や仮校舎で同級生たちとひしめき合っていた、という記憶はない。このようなハード対策は、その後高校や大学の入学定員増というソフト対策にも及んでゆくのであった。
とはいえ、当時大学をめざす若者は今と違って少なく、ぼくの中学校では普通高校に進学した生徒はクラスで3割、大学に入ったのはその半分だったと思う。ぼくが進んだのは、当時高度経済成長を前に即戦力となる技術者の養成を目的として作られた、5年制の工業高等専門学校だった。
1966年冬、ぼくが高専1年生の時である。地元の新聞に「金沢在住の作家、直木賞を受賞!」という大きな見出しが躍っており、そこには当時34才だった五木寛之さんの写真とともに、受賞作品『蒼ざめた馬を見よ』が紹介されていた。受賞作品どころか氏の名前すら知らなかったが、とにかくぼくにはこの金沢という古い街にこのような若い作家が暮しているというだけで驚きだった。
翌年、当時人気のあった若者向け男性週刊誌『平凡パンチ』に五木さんの連載が始まった。小説のタイトルは『青年は荒野をめざす』、イラストは新進気鋭の柳生弦一郎さんだった。これが五木さんと出会った最初の作品である。そのころぼくは父の仕事の関係で金沢から電車で20分の町に住んでおり、毎週木曜の夕方になると、駅の売店に並ぶ『平凡パンチ』を買いに行ったものである。表紙の大橋歩さんのイラストを眺め、次いでヌードグラビアをチェック、そして『青年は荒野をめざす』を読む。
物語は、20才のトランペッター・ジュンが自分のジャズの音を見つけるため、横浜からナホトカ航路に乗り込むところから始まる。シベリア鉄道でモスクワを経由し、ヨーロッパの北の玄関口ヘルシンキに入る。ストックホルムやコペンハーゲンの街ではさまざまな出会いがあり、少しずつ成長していくジュン。パリ、マドリードと旅を続け、リスボンの港から貨物船でアメリカに向かうところでこの物語は終わる。
ぼくはこの小説でジュンの生き方に感動し、ジャズと北欧の国々に興味を覚えた。カレリア、シベリウス、ムンク、バイキング、イプセン、アンデルセン……いつか北欧を旅したい、という夢がふくらんでいく。また、五木さんの青春時代を書いた小説やエッセイを読むたびに、大人びた大学生活が羨ましくもあった。
1971年、ジュンと同じ20才で高専を卒業したぼくは、当時の国鉄(現JR)に土木技術者として入社する。2年毎の転勤だったので、旅をしているようなサラリーマン生活でもあった。49才の春、すでに民営化されてJR西日本の社員だったぼくは、グループ会社に出向する。この2年間の出向生活が人生の大きな転機になるとは思わなかった。
会社では管理職についていたが、出向会社では一作業責任者として現場の第一線に立つことになった。日中は列車が走って線路のメンテナンスができないため、作業は深夜列車が止まった時になる。作業員に怪我をさせないこと、作業中の事故で列車を止めないことを最優先に連夜現場で働いた結果、体重は8kg減って67kgとなっていた。妻は、お金をいただいてのダイエットなんてできないわよ、と軽口をたたきながらも支えてくれた。仕事の苦労はいとわなかったが、やはり身体はきつかった。
当時会社では51才から早期退職制度に応募できる仕組みがあり、親会社だろうが子会社だろうが、どこにいてもいつかは会社を辞めなければならない時が来る。辞めようかと思っている、と話すぼくに、今までずっと働いてきたんだから好きなことをすればいいわ、と言ってくれた妻。翌年この制度の中の一つ、退職を前提とした5年間の休職制度にぼくは応募し、会社は認めてくれた。
2002年4月、会社をリタイアして休職生活に入った。妻はパートに出ており、ぼくは会社時代の給料の半分が支給されるので、最低限の生活保障はあった。5年間なにをするか? 主夫をしようと思った。それだけだ。そして、5年後には好きなことを仕事にしよう。
2ヵ月後、ぼくと妻はヘルシンキに向かう飛行機の中にいた。1ヶ月間の北欧の旅に出たのである。両親と子どもたちは快く送り出してくれた。「中年だって荒野をめざす」がその旅の合言葉だった。
ヘルシンキで数日間過ごした後、ジュンが乗ったバルト海クルーズ船でストックホルムに向かう。ガムラ・スタン(旧市街)では、小説に出てきたライブハウス・ジャンバラヤを二人で探し回ったり、デパートの地下で食材を買い宿泊先のユース・ホステルで食事を作ったりしているうちに、旅と生活が一体となってきた。北欧4カ国の鉄道が乗り放題の「スカンレイル・パス」にスタンプを押してもらい、五木さんの作品に出てきた街や美術館を巡る旅は、ここストックホルム中央駅から始まった。
コペンハーゲンからアンデルセンの生まれたオーデンセの町へ移動した後、デンマーク国内を北上していく。船で再びスウェーデンに渡り、国際列車で国境を越えるとオスロの街だ。ムンク美術館でのんびり一日を過ごす。
さらにノルウェーのフィヨルド海岸に沿って北へ向かう。ヨーロッパ大陸の最北地・ノールカップに着いたのは深夜の1時だったが、白夜なので沈まぬ太陽が水平線の上を横に移動してゆく。片言の英語しか話せないぼくたちだが、金沢から8000キロ離れたこの地までよくやって来れたものだ、と二人でビールのグラスを手に感慨にふける。
再びスカンジナビア半島を南下してヘルシンキに3週間ぶりに戻ってくると、街は初夏の陽射しがまぶしい。夏を待ちわびていたのだろうか、エスプラナーデ公園では誰もがTシャツと短パン姿でお喋りしている。
時間も仕事も家族のことも気にすることは要らない今回の旅ほど、刺激的で、愉しい旅はなかった。この思いは強く、その後4度も北欧を旅することになろうとは思ってもみなかった。
休職生活に入って3年目の春、好きだった本に囲まれた仕事を始めようと思った。古本屋である。ぼくも妻も人が好きだから、人が集まる場としてカフェスペースも併設しよう。こうして「ブックカフェあうん堂」がオープンした。カフェの担当は妻で、ぼくは古本屋のオヤジだ。二人とも古本業や接客業は初体験だが、今度の合言葉は「中年だから荒野をめざす」にしよう。